慰霊の日 in 三宿

文・鎌田浩宮

東京の
小さな病院の
待合室の
テレビは
透明に
できていた。

 

沖縄タイムスより

人口の1/4が戦死した、沖縄戦。
例えて言えば、僕は4人家族だけど、その内の1人はアメリカ兵か日本兵に殺されたか、または集団自決に至ったという事になる。
それは僕の家だけでなく、親戚の實おじさんの家でも同様だし、親友の大友君やタカツカさんや和夫ちゃんの家でも、同様に死んだ人がいるわけだ。
そして実際には、家族によっては全員が亡くなったり、1人だけ生き残り孤児になった人も多くいる。

1945年6月23日に、組織的戦闘としての沖縄戦が終結。
この日はそれ以来「慰霊の日」とされ、沖縄県内の学校・役所などは休みとなり、亡くなった人達を追悼する。
2017年の今年は、戦後72年。

2017年のこの日、僕はかかりつけの病院へ行く事になっていた。
昼の12:20からNHKで生中継される慰霊の日の式典を録画予約し、家を出た。
できれば、同時刻に放送を観たい。
家を出る時間をずらし、12:20には病院のテレビでそれを観られるよう、時間を合わせた。

 

沖縄
には
ない
光景。

 

東京は三軒茶屋の隣町、三宿にある小さな町のお医者さん、その小さな待合室。
テレビが置いてあり、病院というのはどこも似ているが、その病院も、いつも通りNHKにチャンネルが合わせてあった。

12:20、放送が始まった、
僕は、モニターを凝視した。
翁長県知事は、どんなスピーチを聞かせてくれるだろう?
子供達による詩の朗読、ことしはどんなものだろう?
安倍のスピーチに怒号を発し、拍手しない勇気のある人はどれだけいるだろう?
幾重ものバリアーに守られ市民の声など聞いたことのない安倍が、直接その声を聞ける数少ない場なのだ。

式典で、翁長さんが、連日報道される辺野古についてスピーチする。
県立宮古高校の生徒である、とても可愛らしい少女が肝(ちむ)の底から振り絞って、今なお平和から遠い沖縄を訴えかける。
待合室には、7人ほどがいただろうか。
大方は60代の女性、他には40代くらいの男性が1人。
テレビを観ていたのは、僕を除いて60代後半の女性1人だけだった。
他の人は携帯をいじったり、病院にある雑誌を読んでいた。
安倍が壇上に上がった時、2人ほどが画面に目をやり、すぐに元に戻した。

 

 

信じられない。
沖縄では考えられない光景だ。
いや、ある程度の覚悟はしていたけれど、実際にそれを目にすると、虚無感さえ生まれてくる。

今日が慰霊の日だという事を知らない人は、とても多いのだろう。
テレビでも学校でも、その事が扱われる事はあまりに少ないし。
恐ろしい事だが、沖縄戦自体を知らない人も、少なくはないのだろう。
平和か反戦のイヴェントが中継されているんだろう、その程度だ。
少女のマブイ(魂)が赤く燃えるような朗読も、学園祭の演劇部の出し物のようにしか見えないのだろう。

これが、本土だ。
これが、内地だ。

 


琉球放送 RBC THE NEWS「戦後72年の慰霊の日 平和の祈りに包まれる」

 

その
無関心を
誰かが
助けて
いないか。

 

それを無関心と受け取り、怒りに転じるのは、ヤバいと思う。
例えば、一緒にバンドをやっていて「辺野古へ」という曲さえ演奏している僕の弟だったら、どうだろう?
テレビに見向きもしなかったかも知れない。
自分の家族だったら、友人だったら、仕事仲間だったら、しっかり凝視していたとは言い難いのだ。
僕が常に沖縄の事を訴えていても、届かない人には、届いていない。

僕自身、ある年齢まで選挙へ全く行かなかった。
僕の中ではちゃんとした理由があったんだけれど、他人からは「政治に関心がないのか?」と怒りをもって見つめられていたかも知れない。

僕が中学生の頃、校内暴力というものが花盛りだった。
生徒が先生を殴ってしまう、窓ガラスを割ったり、卒業式に警察が立ち合ったり。
ヤンキーという言葉はまだなく、横浜銀蠅の影響で不良は「ツッパリ」と呼ばれていた。
これらの事態を、どうしたら止める事ができるのだろう?
僕は馬鹿な頭で考えた。
ツッパリ達に説いて回ればいいのか、それは否だった。
彼らは様々な理由で荒れている、その下を辿っていけば、教師側からの管理教育に原因があるんじゃないか、という結論に行きついた。
荒れる彼らに、暴力をもって管理する、さかのぼっていけば、無理矢理制服を着せたり、髪の色や長さで罰則を与える。
僕はツッパリ達へ、逆に自由と自治を要求していいんだぜと訴えていった。
これが生徒の圧倒的多数の支持を受けていったのだった。

 

その
無関心を
喜ぶ彼ら。

 

僕なんぞの過去を引き合いに出してすまないが、沖縄の問題にしても、市民を悪者にするのは違うんじゃないか、市民同士で対立するんじゃ権力側の思うつぼなんじゃないかと思うのだ。
僕らは極めて冷静に、沖縄への無関心の原因を探していこうじゃないか。
学校やテレビや新聞が、沖縄戦や基地問題を丁寧に伝えていない、そこに政府からの恣意性はないか。
戦前・戦中・戦後を通してずっと本土の人が沖縄の人を差別してきた、それを政府が許容してはいなかったか。

沖縄や在日コリアン・障がい者・被差別部落など、マイノリティーに対して、政治家は何をしてきただろうか。
マイノリティーよりもマジョリティーに媚を売った方が選挙で勝てる、政治家生命を保てるし、アメリカに媚を売った方が政府に利潤がもたらせられる。
権力者、体制というものは、常にそうだ。

 

 

人間の心理から、差別という感情を全くなくすのは難しい、という意見をよく聞く。
それに反論をしているわけじゃない。
それを理性と知恵で押しとどめるのではなく、体制が助長してはいないか、利用してはいないかと言っているのだ。

慰霊の日に関心を持たれちゃ、かなわない。
沖縄に、基地問題に関心を持たれちゃ、かなわない。
この記事を読めば分かる通り、普天間飛行場を無条件返還するとアメリカ政府が応じたのに、代替基地を提供するから米軍は日本に留まってほしいと提案したのは日本政府の方なのだ。
この例1つを取っても、関心を持たれ真相を探られたくない事が、政府には山ほどある。

また、去年2016年に沖縄の女性がレイプされ殺され、それを受けての集会で沖縄の女性が「本土の人々は第2の加害者だ」とスピーチをした。
この発言は正しいものであり、非難されるべきものではない。
沖縄への無関心は権力者による助長がある、というのが僕の意見だが、実際に無関心と差別を被っている沖縄の人達は、常にレイプと殺人の恐怖にさらされている。
一刻も早くこのような状態から脱しないといけないのであり、彼女達にとって無関心は罪なのだ。

 

エプスタインズ慰霊の日特集、戦後70年目の慰霊の日(2015年)2014年の記事2013年の記事2012年の記事はこちらです。


2017.06.24