walkin’ to the beat everlasting⑥

一部写真・文/鎌田浩宮

1989年、サディスティック・ミカ・バンド再結成。
ソロでJ-POPを展開していた幸宏さんが、還ってきた。
「天晴」は、幸宏さんはもちろんトノバンや礼さんも素晴らしい曲を提供し、教授やキヨシローも参加。これぞロックという名作になった。メンバーに敬語を使わないかれんのキャラクターは傑出しており、美貌も相まって、僕は虜になってしまった。もちろん、ベイNKホールにも行ってきた。

礼さんはアメリカで活動していたので、ヴォーカルや作曲曲を聴くのは初めてだった。渋い低音の声。カッコE。こんな声をしてるんだ!おかえりなさい、礼さん。

礼さん作曲「脳にファイヤー!」のコーラスにキヨシローが参加しているのは、当時お蔵入りになったキヨシローのソロに礼さんが参加していたからかな。キヨシローが旅立った後に「Baby#1」として発売。


トノバンの曲も、素晴らしい。幸宏さんと礼さんとかれんに存分に暴れさせ、自身は余裕を保ちつつ、グラマラスでヒップで、ロキシーミュージックのようでもあって。

その9年後になるのかしら。
まさか、幸宏さんとほんの少しだけ、挨拶を交わすことができた。

僕は大学を中退し、音楽の道を志した。
サンレコ主催、細野さん審査によるコンテストに入賞。この時サンレコに掲載された細野さんの講評は、今でも僕の宝物で、大切に保管しています。

入賞者の曲は細野さん監修によって1995年「École」というアルバムとなり発売された。僕の入賞曲はサンプリングが著作権に引っ掛かるので、別の曲に差し替えて収録していただきました。当時の國崎晋編集長には、大変お世話になりました。

翌1996年、阪急電鉄梅田駅発車チャイムと、その他で流れる急行通過警告チャイム、到着チャイムの作曲を手掛けた。高校の時の後輩が音楽制作会社に就職し、全く無名の僕に依頼してくれたのでした。今ももちろん彼女には足を向けて眠れません。本当にありがとうございました。

僕は必死だった。
こうした数少ない既発曲をカセットテープにダビング、あちこちの音楽制作会社に送った。ある時は詐欺まがいにひっかかり、ギャラをとんずらされたりした。そんな中、幸宏さんのお兄さんである信之さんの会社が、志摩スペイン村パルケエスパーニャのジェットコースター・ピレネーのCMに起用して下さった。僕のような小物を…本当にありがとうございました。



ピレネーを乗り終えた岩下志麻さんが「もう乗らへんで」と言い放つ。僕は、そのバックに流れる4つ打ちのテクノを作曲した。関西では記憶に残るCMとして、覚えている人も多いのかな。このCMは東京では放映されなかった。阪急に続き、僕の仕事は東京で全く話題にならなかった。

後日、お誘いを受けびっくりした。
CMスタッフの方々は、僕が幸宏さんの大ファンということをご存じだった。仕事もできないくせに鼻っ柱が強いだけの僕なんぞを、幸宏さん主催のライヴに招いて下さると言うのだ。幸宏さんが身近な仲間を呼び、リラックスした形のライヴだったと思う。日清パワステだったかなあ…。

中2階だったか。関係者席をご用意して下さった。出演者もそこでくつろぎながら、仲間たちの演奏を聴く形になっている。幸宏さんがいらっしゃった。僕は失神するんじゃないかというほど緊張しながら、挨拶を申し上げ École」を献上した。幸宏さんはご丁寧に「ありがとう」とおっしゃって下さり「細野さんはミックスでも参加してるの?」といったことをお尋ね下さった。

ここまで書いて、やはり涙が出そうになります。本当に、優しい方でした。

前後して、テクノポップをルーツとするとあるミュージシャンへ École」 をお渡しした際、その方は無言で受け取った。そりゃあそうだ、それが当然の対応だと思っていたので、幸宏さんの上下ない温かさは、本当に驚き、感激しました。

ご挨拶させていただいたことだけで失神。真の音楽殺人。小学5年生の頃から鼻血をびゃんびゃん流し聴いていたYMOのお一方と、遂にご挨拶がかなった。 今、数えてみた。11歳でびゃんして、その19年後。バカマダ30歳。遂ににお会いできたんだなあ…。

その後のことは、ほぼ覚えていない。おそらくこの音源がその日の模様なのだけれど、本当に覚えていない。ひょっとしたら別の時に開催された 「寝不足の朝、運動不足の夜」を訪れたのかも知れない。

当時の一般家庭はVHSヴィデオ。だからだろう、ピレネーのそのCMはYouTubeでも見かけない。今、僕の手元にあるのは、依頼された時にいただいた仮のテープで、CGによるジェットコースターのレールのみ。当時「極妻」で人気だった岩下志麻さんは、このヴィデオテープには映っていない。

東京で放映されなかったことが、何だというのでしょう。名高いCMに携わらせていただき、ライヴまでお招きいただいたことは、生涯随一の宝物です。当時のスタッフにはお若い方もいらっしゃいましたが、おそらく現在は還暦を超え、幸宏さんのご逝去を偲んでいらっしゃるかと存じます。心からお悔やみを申し上げます。その節は、大変お世話になりました。誠にありがとうございました。

この連載、読者はおそらく5人程度。
でもでも、この連載つづくっ!


2023.03.04