walkin’ to the beat everlasting⑦

一部写真・文/鎌田浩宮

2002年。
スケッチ・ショウ、デビュー。
本当に嬉しかったです。
思い出しても、コーフンします。

9月、ファーストアルバム発売。
大袈裟ではなく、毎日聴いていたと思います。

12月には、ライヴ。
絶対、行くぞ。チケット、買うぞ。

と張り切っていたら、マジか。いいのか。こんな俺に、本当にいいのか。

ありがたいことに、お友達からチケットをいただきました。しかも、8日と9日の2日間ともです。1日だけで昇天してしまうのに。2日間、振り切れるほど陶酔しました。麿と行ったんだよね。2日とも一緒だったけ?

この映像を観ると、思い出が甦ります。
この連載を始めてから、ある程度時間が経ちました。
強い悲しみもやや沈静したのか、バカマダの文体も「だ・である」から「です・ます」に変わっとります。
でも、この映像を観ると、涙腺が緩みます。

46分以降を、観て下さい。
2日間とも、2人が踊るんです。
同じ流れです。同じ振付です。だがしかし、もちろん僕のコーフンは冷めません。
冷めないどころか、ずっとこの時が続いてほしいと思いました。
ずっとチリチリノイズ流れて、2人がお揃いの振付で踊って、皆がユキヒロー!細野さーん!って黄色い声出し続けて(僕だけ細野さんじゃなくハリーと叫ぶ)。サイコーではないか。サイキョーではないか。

そのお友達には、一生足を向けて眠れません。
終演直後、ステージのバックヤードに招いてくれたのです。
ステージの裏は少し広いスペースになっていて、幸宏さん、細野さん、教授を囲んで、缶ビールで軽く乾杯という場でした。

一緒に出演した小山田くんもいるし、小山田くんの小さなお子さんも楽しそうにしていました。お客さんで来ていた高野さんやテイさん、川勝さんも。電グルもいたかなあ。総勢で50人ほどいたように覚えています。川勝さんはこの幸福感に満ちた打ち上げを、後日TV.Brosに記していて、強く感激しました。
もちろん、僕は誰に話しかけられるでもなく、この場にいていいんだろうか、でも、もう一生このような場に立ち会えることはないだろうと、幸せをかみしめていました。

この日か、もしくはその後のHASか、記憶が混濁しているのですが、その友達のおかげで、開演前の楽屋の前までお邪魔したことがあります。本当に足向けて眠れないぞキャマダ。

扉の向こうに、幸宏さんがいました。
開演前でも、幸宏さんにぴりぴりした空気は漂っていませんでした。
たまたま楽屋に入ってきた関係者のお子さんを見つけ
「お!〇〇~」
と、その子に声をかけていました。
レコードやライヴで、何万回も聴いたその声。
輝くような倍音。朗らかなあいさつ。

幼い子への、あの声。
これも、一生忘れられない記憶です。

こういった絵葉書も、大事にしています。
1979年、YMO海外公演凱旋ライヴから、23年。
11歳の僕は、34歳になっていました。
最後に、多くの場所に招いてくれたお友達に、改めて最大の感謝をお伝えします。

読者数おおよそ5名のこの連載。
まだまだつづくっ!

2023.03.26