にほんで くらしている モンゴルの みなさんへ
そして にほんの どくしゃの みなさんへ

ここでは、ぼくが モンゴルで しりあった、モンゴルじんの ともだちに、いろいろなことを かいてもらいます。
その ともだちは、にほんごを ほとんど しゃべれないのに、ゆうきを だして にほんにきて くらしはじめました。
いまは にほんごを べんきょうし、いっしょうけんめい しごとを さがしています。
みなさんも、かれの ぶんしょうを よんで、「わたしも がんばろう!」と、ゆうきづけられたら いいな、とおもっています。
そして、にほんのひとたちと、モンゴルのひとたちが、こどくに なやまないで、どんどん、なかよくなれば いいな、と おもいます。
そして みんなが、きのうよりも きょう、そして きょうよりも あしたが、たのしい、ゆたかな ひに なればいいな、と ねがって います。

エプスタインズ へんしゅうぶ かまだひろのみや

第-1 「モンゴルに いたころの おはなし」

Тэрбээр Японы эмэгтэйтэй гэрлэсэн нь уулзалтын Монгол , Япон руу цагаачилсан юм. Монголчууд Японд амьдарч , маш хэцүү байдаг. Энэ өгүүлбэрийг уншиж, зориг уу.

Камата хийж Hironomiya

Terbeer Yapony emegteitei gerlesen ni uulzaltyn Mongol , Yapon ruu tsagaachilsan yum. Mongolchuud Yapond amidarch , mash khetsüü baidag. Ene ögüülberiig unshij, zorig uu.

Kamata khiij Hironomiya

今日は。私は鉄(仮名)ともうします モンゴルからまいりまして早(はや)いものてもう2年になります。皆(みんな)さん、たぶん、この人はいったい何を書くんだろうと思うかむしらない。
私は皆に人間はやればやるぼど何でもできますよ、ということで自分の今までのがんばてきった、生活のことをできるだけ教(おし)えていたします。
私の故里(ふるさと)はモンゴルの南のほうにある、ドンドゴビという県の町に生まれそしてその町で18歳高校(こうこう)卒業(そつぎょう)するまですんでいました。その卒業しに春父親がこう話しました、ぼくは今年をとってお母さんと二人で牧場(ぼくじょう)の仕事をやるのは大変になってきた。ですので高校を卒業したら、一緒(いっしょ)にこの仕事をやりましょうといいました。それで私はその道を選んで、両親に手伝(てつだ)うために田舎に引っ越ししました。最初は私に30との羊ややきを買ってくれた それで7年の後その30との動物は350とになるまで増えてきた。結局(けっきょく)これはやればやるほど何でもできます、だからがんばろう、と、私の気もちの結果でした。

つづく

mongol

へんしゅうぶ から せつめい
鉄は このぶんしょうを えんぴつで 3じかんもかけて かいてくれました。
むずかしい にほんのかんじも とてもじょうずに かいてくれました。
むずかしい かんじ には しんせつに ふりがなを かいてくれました。
うえの しゃしんが 鉄のかいた ほんものの ぶんしょうです。
鉄のぶんしょうには すこしだけ にほんごの かきかたに まちがいが ありますが、がんばって 3じかんもかけて かいてくれました。
その どりょくを みてほしいので あえて まちがいを なおさないでおきました。


2010.08.12

どくしゃの かたがた へ アンケートを とってみたら・・・

せんじつ、どくしゃの かたがたに、アンケートを おねがいしました。

すると、この
「モンゴルのともだち、にほんでくらす。」
が よかったよ、という おへんじが かえってきました。

鉄も、いっしょうけんめい かいてくれましたが、
どくしゃの みなさんも、いっしょうけんめい かいてくれました。

そのことが、とても うれしかったです。
鉄、どくしゃの みなさん、ありがとうございました。

きょうは、それを しょうかい しますね。
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§ モンゴルの方の手紙には心が揺れました。一生懸命日本語で書いてくれて、それをそのまま載せるという両者のまっすぐな心に~

§ 一生懸命な手紙に感動

 
§ オーストラリアに来て2年3カ月、ケアンズからゴールドコーストに引っ越しをして来て3ヶ月経ちました。(こちらはまだ冬の終わりです。とはいえ日中は薄い長袖1枚で事足りるさわやかな季節です。)
これまでふまじめな読者だったので、アンケートの通りにこたえるのははばかられるため、一つだけ共感した記事についてお話しさせて下さい。
 
それはモンゴルのお友だちの記事です。丁度彼が日本に来た頃私はこちらに来たと思うのですが、それもあって、一生懸命異国で頑張っている彼にとても共感を覚えました。
 
私の英語は彼の日本語よりうまく相手に通じているとは思えません。(学習年数ははるかに彼よりも長いと思うのですが…(^^ゞ)でも、やはり必死に相手に気持ちを伝えたい、そして外国人だから感じられる異国の社会の良いところ、こうなったらいいなと思うところを伝えて行くことで、微力ながらお世話になっている周囲の人たちや社会にお返しがしたいという気持ち、私の中にあるものを彼の文章の中にも感じ、共感を覚えました。
 
日本はオーストラリア以上に社会が病んでいて複雑化した問題がたっぷりあるけれど、彼がご家族や鎌田君のような温かい日本の友人に支えられ、人の善意を信じてそのあたたかな輪を広げていくことを素晴らしく思うし、遠い空の下から応援しています。
 
異質なものを受け入れることによって、個人も社会(国)も豊かになって行くことを思うと、日本は閉じられた意識を変えていくことによって再生して行くのだと思えてなりません。日本が真の意味で自分のオリジナリティーを発揮して世界に貢献して行くには、まず自分たちの姿を客観的に見つめて、その良さと弱点を認識する必要があると思います。
 
海外にいると、日本人の感性の鋭さとそこから生まれる製品の精密度をあらためて実感します。(それは、スナック菓子から文房具といった小さな商品から電化製品まですべて共通しています)でもその商品を作りだすために日本の労働者たちがしのぎを削り、擦り切れてしまっていることは、皮肉な現実です。一方、オーストラリアの人たちには、「とことん突き詰めて商品を生み出す努力で自分がすり減ってしまっても、トータルとしてライフを楽しまなければ一体どうなんだ?」という価値観がしっかりと根付いている気がします。
 
と・・・誰でも既に感じていることを熱弁してしまった自分が青くて恥ずかしいですが、やっぱりあきらめずに置かれている場所でできることを無理せずにしてきたいですよね。


2010.08.30

第-2 「あきらめない。生活のためには常に努力する。」

Тэрбээр Японы эмэгтэйтэй гэрлэсэн нь уулзалтын Монгол , Япон руу цагаачилсан юм. Монголчууд Японд амьдарч , маш хэцүү байдаг. Энэ өгүүлбэрийг уншиж, зориг уу.

Камата хийж Hironomiya

Terbeer Yapony emegteitei gerlesen ni uulzaltyn Mongol , Yapon ruu tsagaachilsan yum. Mongolchuud Yapond amidarch , mash khetsüü baidag. Ene ögüülberiig unshij, zorig uu.

Kamata khiij Hironomiya

 

1999年。この年は遊牧生活をする中で一番悲しい年でした。
この年までの8年間で、自分の力の限り働いて、働いて、羊・やぎの数を400頭まで育て、増やすことができました。ここまで増えると私達の生活は十分足りるようになり、本当に嬉しかったです。けれど、生活というものは、常に優しいものではなく、きびしさもあることを間もなく知ったのです。

1999年の冬のことでした。その冬は、モンゴルのゴビ地方にかつてない記録的な大雪が降り、寒さも異常な寒さでした。11月から雪嵐が吹きあれ、外は-35℃まで凍りつきました。羊・やぎは毎日草を食べに出かけるのですが、外はたえきれない寒さでした。ふつうは朝から晩まで一日中草を食べているのに、一時間もしないうちに、もどってきてしまいました。もどるとちゅうで、弱ったり、やせていたり、年をとっていたりする羊・やぎは、体が冷えきって、感覚がなくなっていました。そして、足が全く動かなくなっていました。そのため、乗り物やらくだの背で、家まで運び連れ帰ったのですが、間もなく死んでしまいました。

深夜になると、さらに気温は下がり、-40℃になりました。小屋の中は外よりあたたかいのですが、それでも寒すぎます。地に足やおなかをつけて眠るには、寒すぎるので、他の羊・やぎの体の上に、一頭、一頭がのっかって眠ろうとしました。けれど翌朝、下じきになった羊・やぎは、冷たくなって死んでいました。

どの羊・やぎも十分な草を食べられずに、どんどん飢えていきました。飢えで、自分の体の毛を歯でむしり取って食べる羊・やぎの姿も見ました。

こうして、毎朝、毎日、何十頭、何百頭がバタバタと死んでいくのを見ました。それは地獄絵でした。この経験は、私だけでなくこの地方の遊牧民全てが、同じ地獄を見ました。

つづく・・・

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へんしゅうぶ から せつめい
この ぶんしょうを かいてくれている 鉄は とっても とっても がんばったおかげで にほんで しゅうしょくすることが できました。
しごとが みつかったのです。
この ふけいきの なかで しごとをみつけたのは すごいことです。

鉄は いっしょうけんめい しごとを しているので、いえに かえると つかれているせいで ごはんを たべて すぐに ねています。
なので こんかいの ぶんしょうは 鉄が モンゴルごで ぶんしょうを かき、にほんじんの おくさんが それを にほんごに かきなおしました。
なので、しごとで つかれていても、これだけ たくさんの ぶんしょうを かくことが できたのです。

これを よんでくださっている モンゴルの ひとたちも、鉄の ように がんばれると いいですね。
ぼくらも 鉄の ように がんばります。

ちなみに、ぼくは モンゴルへ 2かい しか いったことが ありませんが、400とうも ひつじ や やぎ を かっているのは、すごい ことです。
ぼくが、モンゴルで あった ゆうぼくみんの ひとたちの なかには、ひつじ・やぎの かずが、もっと すくない かぞく が おおかった からです。
だから、8ねんかん がんばって、400とう に ふやしたのは、すごい ことだなあ、と、おもいます。

なので、じごく のように なってしまって、どうぶつも かわいそう ですし、鉄の かぞくも どうやって いきていけば いいのか、ぜつぼう したのでは ないでしょうか。


2010.11.26