about 14:46 again

構成・鎌田浩宮

今年の
311の
14:46に、
この国の人は
何をしていたか。

 

のどか、
が、
いいなあ。

 

以前、エプスタのこちらにも書いたけれど、小海線に乗って、長野の山奥、川上に行きました。
隣の駅は、JRで最も標高の高い、野辺山駅。
どのくらい山奥か、分かるでしょ?
家は、ぽつんぽつんだけ。
レタス畑が、視界いっぱいに広がってて。

お昼になれば、夕方になれば、村に点在する火の見櫓のスピーカーから音楽が流れ
「気を付けて帰りましょう」
なんてアナウンスが入りますね。
のどかで、いいんだよなあ。

その中に、
「今日は広島原爆の日です。黙祷しましょう」
なんて放送があります。

「あまちゃん」でも、しょっちゅう放送が流れましたもんね。
「今日は海開きの日でがす」
とか。

都会に住んでいると、川上や北三陸の方が健全なコミュニティかなあ、と思ったりしますねえ。
のどかな中に、いったん仕事の手を止めて、様々な物事を確かめ、偲ぶ余裕がある。
黙祷が嫌な人がいたとしても、隣の家は覗かれないから、しなくってもばれないしね。

3月11日を休日にする案があるんだって?
だったら、1月17日も、さらには6月23日も、休日にすべきだろうな。

というわけで、この特集、続けます。
お読み下さい。

 

エプスタから
皆さんへの、
アンケート。

① 今日の14:46、貴方はどこで何をしていましたか?黙祷はしましたか?

② その時の周囲の様子はどうでしたか?黙祷してる人はいましたか?

 

やんぼう(沖縄県)さん

職場で黙祷する為の全館放送してました。
全員黙祷(事務所内)

 

ワオ君(宮城県)

東京本部に出張中。事務所内でも黙祷をしようと声があり、周囲に声をかけ、皆で黙祷した。

 

NJ(大阪府)さん

①大阪・梅田のOfficeで仕事してました。黙祷していません。
ニュースで食傷気味で、忘れてました。
誤解されたくないので、申し添えると、考えないようにしてますし、南海ドラフの巨大地震のほうが今は身近な危機感感じますね。
感じても仕方ないけど。

②皆無でした。
関東では、放射線の危機が身近かですが、関西では危機感あまり感じること少ないです。
野菜も西日本産ばかりだし。
あの日の揺れ、帰宅困難、その後の余震に怯えるなんて経験してないと、他人事とまではいきませんが、身近ではないようです。
被災者のことを考えると自分も凹んでしまうのであまり直視していません。
しかしながら、今年は福島に足を踏み入れます。

 

嬉しいなあ。
遠い沖縄の地でも、心を傾けてくれるんですねえ。
だって、内地の僕らが、6月23日に黙祷するかい?
(僕は、するけどね)
6月23日が何の日か分からない人、自力で調べなさいね。
ちなみにやんぼうさんは、辺野古移設で揺れる名護市在住。
最近、エプスタに寄稿して下さってます。

エプスタ常連、東北で復興支援関連の仕事をしているワオ君は、東京に来ていたのね。
トップダウンでの頭ごなしではなく、同僚で話し合っての黙祷、いいんじゃないかい!
東京の企業では、黙祷をしなかった所が多い(エプスタ調べ)けど、こういう所もある訳で。

一方、大阪は大阪で。
もちろん、阪神淡路大震災に遭われた皆さんが、東日本に心を傾けたり傾けなかったりと、様々でしょうけどね。
僕らも1月17日に黙祷するかというと、人それぞれだったりするんだから。
ちなみにNJさんが
「考えないようにしている」
と敢えて書いたのは、彼は元々千葉に住んでいて、そこで311を体験したからだと思います。

さて、前回掲載した、銭湯的ゴジラ主義者さんから、何故自分は黙祷に反対なのか、よかったらでいいので以下の文面を載せてみてはあどうか、とありました。
先日の3月11日の反原発・反黙祷デモで配ったビラだそうです。
それでは、お読みあれ。

 

私たちはなぜ黙祷に反対するのか

「黙祷」と号令がかかる時、人はだれを思い浮かべているのでしょうか。身近な、顔を知っている誰かを思い浮かべている場合ももちろん多いでしょう。でも、今日黙祷をする全国の人の多くは直接に「黙祷」すべき亡くなった人を知っているのではなく、「犠牲者一般」としか呼べないような抽象的な何者かしか思い浮かばないのではないでしょうか。自分が本当に知っている相手なら、他人から命令されなくともさまざまな局面で、その亡き人のことがさまざまな思いとともに浮かんでくるでしょう。黙祷とは場所と時間を決めて、亡き人を知る人も知らない人も行う公的な儀式のことです。その時、実は黙祷をしている人の内面は問われておらず、人が集まって黙祷をしているという形こそが重視されます。

そのことからもわかる通り、黙祷は、個人が亡き人を思い浮かべる「祈り」や「弔い」とは異質な何かです。それは黙祷が、それを見る人がいなければ成立しないことからも明らかです。黙祷は他人が見ていることを前提としています。誰も見ていないところで一人、亡き人に思いいたしていることを黙祷とは呼びません。

多くの人が集まり亡き人のことを思っている形を見せるのはなぜでしょうか。人が哀しんでいる姿は胸を打つものです。哀しみは他の感情と同じく他人にも伝わります。多勢の人が哀しんでいる姿は、見る者の胸を打ちます。黙祷は、それを行っている人と見ている人の双方に強い一体感を抱かせます。また同時に、黙祷する人たちは、なにより一つになった自分たちを見ている、と言えます。

今日の政府主催「東日本大震災三周年追悼式」で行われる黙祷は、亡き人のことを思うと共に、被災地の復興のために行われます。けれども地震や津波、原発事故によるさまざまな死の意味を問い、自分との関係を考えるのは、本来は私たち一人一人のはずです。他人にその姿勢を見せなければならないものではありません。その過程や結論がいわゆる「復興」へと絞り込まれていくものでもないでしょう。

しかし政府主催の式典を中心に、あの時間に全国いたるところで黙祷が行われるのは、国の考える形での「復興」に向けて国民を一丸とするためであり、それへの異議は許されません。それは個別の意思を持つ人間を大きな集団にまとめるための儀式であり、その儀式は個々の人々のためではなく、その集団化のためにこそあります。今日の式典で行われる黙祷は、国による「国民」への動員です。今日黙祷する人々は、黙祷という行為によってこれまで以上に「国民」として統合されていきます。だから今日、追悼式典に「国民統合の象徴」が出席するのです。

国はそこに生きる人々を、国の都合のためにさまざまに動員します。国による動員の行き着く果ては戦争です。黙祷と聞いて多くの人は靖国神社を、八月十五日を思い浮かべるでしょう。靖国神社は戦争で死んだ兵士を、国のため、天皇のために戦って死んだと褒めたたえることで、次に死ぬ兵士を準備していました。靖国こそは、この国が戦争を行うための精神的支柱です。今日の式典を開始した前政権も、そしていまの政権はなおのこと、憲法を改正して戦争ができる国にすることを目指しています。多くの異議の声を無視した法律の成立を強行し、政府への反対・異論を許さない社会をまさしくいま作りつつあるこの国で、今日全国一斉に黙祷が行われるのは、本当は大変に恐ろしいことなのではないでしょうか。

私たちは黙祷して動員されることを拒否します。

私たちは今日の政府主催、天皇出席の追悼式典に反対し、黙祷に反対します。

2014年3月11日 戦時下の現在を考える講座


2014.03.14