福島県相馬市のダチからの便り 第11便

文・鎌田浩宮

sea

そうして杉ちゃんこと杉本敏之は、
自家用車も運ぶため、フェリーで数日かけて移動し、
11月下旬から宮崎の山奥にある農場で働き始めた。

コンビニもスーパーも、車で数十分。
携帯の電波も通じないので、メール機能は解約した。
無償で借りた家屋は古いので、すきま風が寒く、
ベンジョコオロギばかりが元気だったそうだ。
最初の頃は農場の親方の家に夕食をご馳走になったりしたが
慣れてくればすぐさま自炊するしかない。

冬が本格化すると、
畑仕事がなくなり、近くのスキー場で働く。
外で車の誘導などをやっているそうで
寒さは堪えるそうだ。

ski

でも、正月には、彼からこんなショートメールが届いた。

「明けましておめでとうございます。新たな希望を胸にいっぱい溜め込んで、龍のようにかけ登ります。」

この野郎、
うちは浪が死んでしまって喪中だっていうのに、
おめでとうだと!
立腹しつつも、あまりにもあいつは希望に満ちていて、
ほっとしたのでした。
相当、水が合ってるんだな…。

dragon

そして1月中旬、
滅多に電話をよこさないあいつから電話が。
おう、杉ちゃん、元気一杯なショートメールだったじゃないか。
「実は、祖母が急逝して、急遽宮崎から相馬に戻ってるんだ」

驚いた。
杉ちゃんの家は、お母さんが若くして亡くなったので、
彼が宮崎へ移ってからは、
おばあちゃんとお父さんの2人暮らしだった。
「父が留守にしている時に祖母が転倒して、何時間もそのままだったそうなんだ。父が帰宅して発見し、すぐに病院へ行って、その時はなんでもなかったようなんだけど、先日急に容態が悪化して…」

最期には立ち会えたの?
「いや、俺に連絡があったのは、もう亡くなった後だったよ。それで急いで相馬に戻って、葬儀に出て…まあ、90歳だったから、大往生なのかなあ…」

震災も原発もなければ、
職を失って宮崎へ行く事もなかったんだもの、
3人暮らしのままなら、
転倒をすぐに助けられたかも知れないし、
ご臨終にも立ち会えただろうし、
つらいに決まってるよなあ…。
「そうだね…」

僕は浪のことがあったから、
より強くそう感じた。
これまで何十年と一緒にいたのに
肝心な時に救えなかった辛さ、
ずっと一緒だった大切な存在の最期を看取れなかった辛さ。
90歳だろうとなんだろうと、その辛さは変わらないはず。

soma

僕は社会人になって約20年前に1度、相馬を訪れている。
その時既にお母さんは亡くなっていて、
おばあちゃんが代わりに家事をなさっていた。
お父さんの家事も立派なものだった。

おばあちゃんはとても喜んでくれて、
まだお前は20代で若いだろうと
朝食から肉の炒めを出してくれた。
僕は面食らったが、
その気持ちがとっても嬉しかった。

杉ちゃん、あの時を思い出すと、涙が出てくるよ。
優しいおばあちゃんだったなあ。
最期、杉ちゃんに会いたかったろうなあ。
「…ありがとう」

「もう宮崎へ戻らなくちゃいけないんだけど、東京まで電車で出て、羽田空港経由で戻ろうと思うんだ。前の晩に、鎌田の家に泊まらせてもらえないかな」
おお、遠慮するなよ。
たくさん話をしよう。

今回彼と再会したのは、そんな訳があったからなんです。

次回・2月7日(火)掲載へつづく・・・


2012.01.31