面白いテレビドラマが、観たい。
かつて子供の頃に
「ムー」や「ムー一族」を観て
大笑いしてほろりとしてちょっと心躍らせたよな、
そんなヤツが、いいの。
イマドキの月9も恋愛ものも刑事ものもサスペンスも、
全然いらんの。
心にそっと染み渡る、滋養と栄養のいいのが、いいの。

「すいか」(日本テレビ・2003年)もよかった、
「タイガー&ドラゴン」(TBS・2005年)もよかった、
他にもいいドラマはあって、
人気や視聴率は良かったり悪かったりするんだろうけど、
去年、すんごくいいドラマに、出逢えたのだ。

TBSは長年に渡り昼の連ドラを放送し続けてきたのだが
「ひるおび!」という情報番組に改変したんですね。
ずっとその連ドラを制作してきた
TBS系列のMBS(毎日放送)は、
「それでもやっぱりドラマを創りたい!」
とゆーことで、遂に2009年、
深夜の時間帯に移動し
毎週30分の連ドラを放送したのだ。

その名も「深夜食堂」とゆー番組は、
松岡錠司など映画畑の監督を演出に揃え
製作も映画ばりに「深夜食堂」製作委員会
(アミューズ/MBS/ファミマ・ドット・コム/RKB/電通キャスティングアンドエンタテインメント)
を立ち上げ、共同出資するとゆー画期的さ。

『「ビッグコミックオリジナル」で好評連載中の漫画「深夜食堂」がいよいよ連続ドラマ化。営業時間は深夜0時から朝の7時頃までで、メニューは豚汁定食、ビール、酒、焼酎のみ。あとは、出来るものならなんでも作ってくれる、人呼んで「深夜食堂」。繁華街の片隅の、深夜しかやっていない小さなめしやで繰り広げられる、マスターと客たちの交流を描く。一見こわもて、独特の存在感をかもし出すマスター役は、ビールとうまいものが似合う名優・小林薫。
心の小腹を満たす、おかしくて、ホロリとして、癖になる物語。』
(MBS公式サイトより)

ひっさしぶりに、
毎週の深夜が楽しみになった。
視聴率は、それほど…らしかったけど
そんなの関係ねえ。
今や流行らない人情もののドラマを
皆に「いいよ!」と言いふらして回った。

そして数ヶ月、今年に入って、
半ばあきらめていた
念願のDVD化がかなった
っていうではないの!

とゆーことで、
エプスタでは、祝DVD化記念、
この「深夜食堂」を褒めちぎるとゆー特集をします。

第三十一話「タンメン」

文・鎌田浩宮

 

ラジオ局のアナウンサー、島田(近藤公園)は、医者から隠れ肥満と診断されたことを気にしつつも、好物のタンメンが止められない。そんなある日、麺抜きでタンメンを食べるタクシー運転手の晴美(片岡礼子)と出会い、興味を持つように。やがて島田は、晴美が子どもの頃に憧れた戦隊モノの人気ヒロインを演じていた女優だったことに気づく。 (公式HPより)

 

 

連載、再開します。

 

放映がTBS系列からネットフリックスに変わり、有料で観なければならないことに腹を立てていた(ただし、この第4部のおおむねは、後日TBSでも放送されたのだが)。また、第二部からそうだったのだが、作品により出来のばらつきがあり「褒めちぎる」のに難儀な回が増えていた。

しかし、このウェブサイト「エプスタインズ」が創刊10周年となり、この「『深夜食堂』を、褒めちぎる。」は今も世界中からアクセスがある。であれば、未着手である第四部と五部も執筆した方がいいのではないか。改めてDVDをレンタルし観直し、執筆していくので、よろしくお願いします。

片岡礼子さん。「Red」(2020年)という映画で拝見していた。また、橋口亮輔監督作品に多々出演されている。彼の「恋人たち」(2015年)という映画は、とても素晴らしかった。

 

 

ラジオはなぜ豊かなのか

 

深夜のラジオというのは、サンクチュアリのような一面がある。鶴光やビートたけしがとんでもない話をしても、記録に残らない。彼らの言葉は、電波に乗った途端、大気の中に消えていく。記録に残ると言えば、僕のような熱心な聞き手が、お小遣いを貯めて買ったカセットテープに録音する程度のもの。

吉見幸洋(ゆきひろ)さん演ずる俳優が、LGBTであることを話す。自分のありのままを隠して生きるのは、苦痛だ。深夜のラジオで、自らを打ち明ける。それはとても楽しそうだ。開放されている。生き生きとしている。

今は、どうなんだろう?

この番組は、2016年10月に放映された。その頃の深夜放送は、大気に消えることはできたのだろうか?SNSに、その痕跡が残ってしまうのだろうか。匿名による、全くもって下らない誹謗中傷にまみれてしまうのだろうか。

そこで、この回を「現実はそんなに甘くない」「あんなことをしたら叩かれる」と非難しても、つまらない。深夜のラジオというものは、かくして昔も今も、このように守られるべし!と解釈した方がいい。

2019年の5月末に、隠居生活を始めた。まだコロナになる前だったが、外出しなくなった。外に出る用事がないからだ。家の中は楽しく、夕方からつまみを作り、広島東洋カープの試合を観ながら晩酌する。

そんな生活の中で、ラジオを聴く機会が増えた。特に京都はいい番組が多く、1週間で全国各地10前後の放送を聴いている。気づいたのは、その中の会話が記録されていないことだった。番組のHPにもSNSにも、誰が何を喋ったか文章化されていないのだ。

僕ら聴取者は、野暮なことをしないからだ。印象に残る会話などを、SNSに書き込むことなどせず、YouTubeにして残すこともしない。感じたことをどうしても伝えたければ、メールや手紙などを番組にしたためればいい。

番組で自分の名前が読み上げられると、こんないい年齢になっても、どきっとする。いやそれは、年齢のせいではない。受け手と送り手がつながることは、とても豊かなことなのだ。受け手がSNSで一方的に感想を書き込むこととは、類が違うのだ。

この回で自己を吐露したLGBTを、ふわりと聴取者が包み込む。そんなサンクチュアリを望むのは、僕だけではないはずだ。

 

「いだてん」出演時の近藤公園さん。

 

俳優と副業

 

俳優が、他の仕事に就く。思い出した事がある。

数十年前、僕はサラリーマンだった。会社には工場があり、アルバイトを数名雇っていたのだが、その中に50代の男性がいた。彼は俳優なのだが、売れている様子はない。年に1回舞台に立ち、数年に1度CMに出演する程度だった。ハンサムと言われれば、少々ハンサムだが無精ひげ。長身でもなく、スタイルは平凡。

彼は定時の5分前になると、身の回りを掃除する。定時ぴったりで会社を出る。納期が迫り、他の者はアルバイトも社員も皆残業となっても、彼は決して応じず、5分前には掃除をするのだ。他の者は仕事の真最中であり、掃除は邪魔だ。

彼は殆どの者から嫌われていたが、僕は違った。定時になってから掃除をし、作業服を脱いで身支度をしても、その分の残業代は出ない。

つい先日、ゆうちょの従業員が「制服に着替える時間も賃金を払え」と訴え、ゆうちょ側は和解金を支払った。この訴えはもっともであり、よくぞ頑張ったなと感心した。

同調圧力など気にせず、テキトーに仕事をする。納期が迫り焦る同僚に交らず、スピードを早めない。休み時間に、台本を広げるでもない。のんびり煙草をくゆらせている。しかも、自分の作業机に灰皿を置いて。仕事の後も、稽古へ行くわけでない。手ぶらだから、そうと分かるのだ。

この「タンメン」のタクシー・ドライヴァーのように、強い決心をもって俳優を辞めるでもなく、新たな職業に人生を見出すでもなく、毎日を数十歳も年下の青年に混じって、作業をする。

そんな彼を嫌いになるはずがなかった。しかし、彼を懇意にしていた社長が急死する。2007年12月14日、13年前の今日だ。新しい社長は、2008年のリーマンショックを理由にしやすかった。彼はクビになってしまった。その翌年、僕もその会社を辞めた。

彼はまだお元気であらば、60代かと。

 

 

片岡礼子さんの写真を選んでいて、笑顔の素敵なものがいいなと思った。今後の出演作、楽しみにしながら追いかけようと思います。

 




2020.12.14

続・深夜食堂

写真/文・鎌田浩宮

若干のネタバレにご注意を。

 

年寄りが
端にいる
世の中。

 

映画館へ行く途中。
渋谷駅のホームで70代か、いや80代にも見えるおじいちゃんが警備員をやっている。
その横を、20代の若者が威張って歩いている。
多くの人が見逃しそうな情景だが、よく見てみないか?
こんな国は、滅んじまうのも遠くないんじゃないかと思う。
どんな国だって、お年寄りは手厚く保護されるべきで、縁側で渋目の茶などすすりながら新聞を斜め読みし、若ぇ奴等は駄目だななどと言いながら、暖かい日差しにうたた寝でもしてほしいものだ。
ないしは、映画館にでも行って温かな気持ちになって、お蕎麦屋さんで一服でもしてほしいものだ。
ところがこの国ときたら、年を取った人が馬鹿を見るみたいだ。
そんな国で作られるこの映画は、どのように受け取られるのだろう?

 

自由席の
嬉しさ。

 

池袋駅西口のシネマ・ロサ。
そうか、学生時代にボウリングで遊んだ、ロサ会館だ。
古い遊戯施設だ。
何よりも嬉しいのは、ロードショウ館では今や珍しい、自由席であるということだ。
好きな時間に行って、好きな席に座る。
これだけのことが嬉しいのだから、最近のコヤは参っちまうぜ。

あと嬉しいのは、年配のお客さんの多いこと。
あの渋谷駅の警備員さんは、観に来ているだろうか?

 

創造が
現実に
勝つこと。

 

映画が、始まった。
興ざめしたのは、画面のサイズが小さくなったのに、左右の黒カーテンが開いたままだったことだ。

新宿駅西口の高架をくぐり出す。
いつものオープニングシーンだ。
数年前の日本映画だと、テレシネがうまくいっていないものが多かった。
ハードディスクのカメラで撮影し、ハードディスクのプロジェクターで上映するので、正確にはテレシネはしていないはずのだが、なぜか画質の粗さが目立って腹の立つ映画が多かった。
それが今やどうだ。
歌舞伎町のネオンの輝きが、まるでスクリーンに電飾をそのまま貼り付けたかのようだ。
画質が良すぎる。
スクリーンが巨大な4Kの液晶モニターのようだ。
実際に肉眼で見る歌舞伎町と変わらない。

それが、めしやのある路地裏に入ると、「電飾」は一転する。
スタジオの中に造られた路地裏のセットのネオンは暖色系で温かく、心が落ち着いてくる。
面白いのは、昼間のシーンでもスタジオで作られた光に現実感があるのだ。
屋外ロケで本物の太陽光を浴びるより、その光は説得力があり、偽物の光を越え、あの路地裏を照らす本物の陽の光になっている。
これは、照明・美術・大道具を始めとするスタッフの勝利だ。
創造物が、現実に勝利したのだ。

 

もはや
めしやは
擬似家族。

 

今回も、前作と同じオムニバスだった。
しかも、最初の「喪服の女の恋」と「子離れ」の2話は掘り下げが浅く、観るべきものはあまりなかった。
強いて書くなら、小島聖の演技がいいことだけか。
これは前作と同じ失敗作か、と諦観を持って銀幕を眺めていた。

それでも、めしやに集ういつもの客が皆葬式帰りの喪服姿で、しっかり笑いを取る。
その後も随所に笑えるカットがあり、年輩の観客もよく笑う。
それは熊さん八っつぁんの落語のようであり、緩急がテンポよい。
これぞ今の映画界が失った古き佳きプログラムピクチャーのテイストであり、年輩の観客の呼吸と合う。
テレビシリーズの「深夜食堂」は、20~30代の支持が多かったような気がするのだが、違ったのだろうか?
というのは、深夜ドラマの視聴者層というのは、大学生やそれ以上のよふかしをしている30代までが中心で、その世代にターゲットを絞るよううるさく言われていたはずだからだ。
シリーズのシーズン1の傑作「タマゴサンド」は若い恋人たちの失恋をテーマにしていたし、どの回も「孤独な世界の中での人々の交わり」を描いていた。
それが今作で明らかに逆転したのは、めしやは戻るべき「家」であり、そこには家族があり団欒がある。
そこはもう孤独な世界ではなく、いこいの場所だ。
これを観て思い出すのは「男はつらいよ」である。
柴又のくるまやの家族は、実は腹違いの兄妹だったり、両親ではなくおいちゃんおばちゃんだったり、タコ社長が訪れたりの「疑似家族」である。
しかしそこには家族と同様の笑顔がある。

この映画を山田洋次監督が観たら、目を細めるのではないだろうか。

 

ドラマの
TBS。

 

映画は松岡監督書き下ろしの「来て来て詐欺」になると、俄然輝き出す。
渡辺美佐子を、知っているだろうか。
かつては、ホームドラマに欠かせない俳優だった。
TBSは「深夜食堂」を含めホームドラマの秀作を輩出していて、久世光彦演出「ムー」「ムー一族」でお母さん役として魅力を存分に振りまいていたのが、渡辺美佐子だ。
素敵な芝居をする人だ。
その人が今、来て来て詐欺に引っかかってしまうお年寄りの役を演ずる。
あれから時は存分に過ぎたが、TBSで繋がっている。

 

映画が
可能に
する。

 

現実には起こり得ない、いや、起こるかも知れないけれど、難しいかも知れない、そんな情景を映画は可能にする。
オダギリジョー扮するおまわりさんのお膳立てに、涙が溢れる。
こんなおまわりさんがいたら、世界はなんと明るくなることだろう。
おまわりさんを指揮できる、こんなめしやのマスターがいたら、世界はどれだけ明るくなるだろう。
これは、ミュージカル映画を観た時の感情の揺さぶられ方に似ている。
街の大通りを、皆で喜び合いながら、踊り歩くことができたら、世界はどれほど明るくなるだろう。
大雨にずぶ濡れになりながら、1人の女性を思って歌い踊る、なんと素敵なことだろう。

 

愛すべき
プログラム
ピクチャー。

 

バーターか観客動員のためだけに出演する人気アイドル俳優もいない、タイアップもない、変な挿入歌もない、それでいてお客さんが入る、今では稀有な優秀なプログラム・ピクチャー。
前作よりも、とてもよかったと思う。
一部の熱狂的なファンに支えられていたテレビドラマ第一シーズンから、この作品を持って、正統派の大衆娯楽作品、いわゆるプログラムピクチャーに成りたった。
こうなったら「男はつらいよ」のようにシリーズ化して、年輩のお客さんを笑わせ、泣かせてほしい。
あの渋谷駅の警備員のおじいちゃんが、たっぷりと堪能できるようなシリーズに。

http://www.meshiya-movie.com/




2016.12.06

映画「深夜食堂」

文・鎌田浩宮

昭和館

観たかった。

 

ゴールデン街からそれほど遠くない、新宿のシネコンで観た。
ふっかふかの椅子に座りながら、嗚呼、ここが昭和館だったら、どんなに幸せだろう、せめて、歌舞伎町コマ劇前の映画街で、なんなら新宿ミラノ座で観られなかったものだろうかと、時の流れを恨んだ。

何と言っても、第1シーズンの時は低視聴率で、ごく一部のみに惜しまれて終わったこのドラマが、銀幕で観られるのだ。
新宿だけでいい、シネコンでの上映はないんじゃねえか。
好きな時間にぶらっと行って入れない、座席指定がどうのこうの、ネット予約がどうのこうの、上映前には映画泥棒がどうのこうの、そんなもんは全て、いらねえんだよ。

今の映画は、フィルムでもヴィデオでもなく、ハードディスクで撮影され、映写機というよりかは、プロジェクターで上映される。
ただ、そのコンバートが上手くいっていないのか、映画によっては画質が粗かったり、色合いがひどかったりする。
その点、この映画はしっかりしていてほっとした。
あの幻の呑み屋街が、上質なフィルムの質感そのままの画質で、銀幕に映えていた。
少しでもテレビのヴィデオのような質感があったり、品のないフィルターで色を調整していたら、がっかりしていたところだった。

今回映画化された事で、ファンもスタッフも、共に思った事があると思う。
1つは、あの下らないタイアップで流れる、エンディングのJ-POPを聴かなくって済むという事。
もう1つは、これまでのテレビ版でも感じられたけれども、30分で収まりきれないエピソードを、存分に長尺で描けるという事。

でも、蓋を開けたら、3つのオムニバスだった。
そのオムニバスがらせん状に絡み合っていればいいのだけど、それぞれが分離している。
3つを通しての繋がりは、骨壺しかない。
これは、残念だった。

 

無条件

赦し
受け入れる
こと。

 

それでも、30分の枠を超えて描いた「とろろご飯」はよかった。
だが、テレビシリーズの「猫まんま」「タマゴサンド」に匹敵するほどの傑作かとなると、そこは微妙になってしまう。
「ナポリタン」なんぞは、どうしてこの映画に組み込んだのか、意図が分からなかった。

自分の店で食い逃げをした娘を、何も聞かず赦し、銭湯へ行かせ、店を手伝わせる。
僕に、そんな事、できるだろうか?
赦すことは、できるかも知れない。
でも、訳は訊くだろう。
それは、何故か。
僕は、その人を見ただけでは、その人を分別できないからだ。
これは、僕だけじゃないだろう。
ほとんどの人が、そうだろう。
マスターは、その人を見ただけで、その人に出を差し伸べるべきかどうか、判ってしまうのだろうか?
それとも、とりあえず判らなくとも、手を差し伸べるのだろうか?

さらには、そのように無償の愛、無償のほどこしの失敗が「カレーライス」で描かれる。
その対比でこの映画を観賞する人は、少ないだろうけれど。
無条件に人を受け入れる事の素晴らしさと難しさ、両方が描かれている作品だ。

 

震災

描き方。

 

震災を描くのも、テレビより自由度が大きくなるのだろうか?
いや、スポンサーという縛りがあるのはどちらもそうなのだから、どちらが自由というのでもないのだろう。
ただ、松岡監督という人は、震災を描くのでも、結局は人と人との可笑しみや悲しみに終始する。
社会的なメッセージは、一切ない。
人の感情を描く事に、徹する。
そこは物足りなさでもあるが、それが松岡監督の個性なのだろう。

僕も、いつかはマスターのように、無条件に人を助けてみたい。
それはチャップリンや「男はつらいよ」「二十四の瞳」「赤ひげ」などの名作とされている映画たちが、追い続けたテーマでもある。

帰りに、どうしても恋しくなって、ゴールデン街へ寄った。
だけれども、夕方の5時、開いている店はなかった。
唯一ラーメン屋がやっていて、そこでありがたく瓶ビールを呑んで、帰った。
電車の中で、出来の悪いパンフレットをめくりながら。




2015.03.11