「パラサイト」でど突け 第3回

文/名無シー・鎌田浩宮
構成/鎌田浩宮

 

映画「パラサイト 半地下の家族」を巡る、冒険。

なぜ隣人の映画が気になるのか、と話す鎌田。
パン・アメリカーナの話をしよう、と返す名無シー。

「パラサイト」は、非リアリズムの作品なのではないか。
どうぞ、お読み下さい。

 

 

アメリカのポスト・コロニティ、として考える。

 

鎌田浩宮
先に僕が話した、韓国映画だからこそなおさらこの状況を嬉しく感じてしまう…のくだりを、名無シーさんなりに解析していただけませんでしょうか?僕みたいな人、意外にたくさんいるんじゃないかな?って思うんです。

名無シー
一つにはアメリ力に良心が残っていると言う期待に象徴的に答えていると感じる心理でしょうか。我々はアメリ力に関して大きい文化の潮流の発生源だと感じていると同時に、口シアと共に世界に悲しみをバラ撒く巨大な元凶だと言う意識も持っているのは事実だと思います。


はいはい。村上龍さんだって、若い頃はアメリカ大好きでした。アメリカン・ニュー・シネマの洗礼を受け、ロックを浴び、1967年のサマー・オブ・ラブがそのまま小説「69」となり。


まさにそうですね。口シアに関しては文化的にはどことなく田舎者の印象を持つものの、アメリ力に関してはそうではない。アメリ力の市民が中華思想を持っていて、その事で道義に関しても、アメリ力だから許されるのだと感じているのではないか、と言う潜在的な勘ぐりはポス卜コ口ニアル的世界には確実に存在しているでしょう。


ポスト植民地的世界である日本は、アメリカの様々な事を許しています。僕が子供の頃…たかだか35年前ですが、あの頃はアメリカを許していませんでしたよ。

ベトナム戦争へ輸送する戦車の通行を阻止した、相模原市の戦車闘争(1972年)。それより少し前になるけれど、1955年から続いた砂川闘争がいい例です。

 

 

世界中が、負の怒りの影響下にある。

 


全共闘の時、CIAはかなり危機感を覚えて諸々工作をしたという話も聞きます。そして今、アメリ力に貢いでいるものの額面で言うと、我々は独立の看板を掲げた植民地の筆頭だと言えます。永田町・霞ヶ関は、我々の怒りをワシントンに向けない張りぼての機能を担っているのも事実でしょう。


日本人が認めていないだけ。海外から見ると多くの人が「日本はアメリカ植民地の筆頭だよなあ」と思っているでしょうね。使う当てのない戦闘機やイージス・アショアの爆買い、やばいよなあ。オスプレイなんか使ってたら、戦争には負けるもん。一方フィリピンは、米軍基地協定を破棄したばかりです。


そういう訳で、極東の島嶼、半島、東南アジアの島嶼部、中南米の市民達、ネイティブアメリ力ンの中には、ポス卜構造によって互いには意識されていなくてもこのアメリ力に対する負の怒りは静かな熾としてくすぶり続けている訳です。


その通りです。あと、意外に知られていないのは、ヨーロッパ諸国にも米軍基地があり、反米軍基地運動も起こっているんですよね。


ドイツやイタリアは敗戦国だけれど、日本よりは脱米に本腰を入れていますね。一方で日本は…… しかし市民レベルでは怒っている人も多い。

昨年町中でよく耳にしたDA РUМРが軽薄に聞こえるのは、表層的な問題だけではないかも知れません。そこに、アメリ力が異文化、いや、植民地発の文化にも関心を抱いているかも知れないと言うニュースが舞い込んだわけです。


2018年のNHK紅白歌合戦、後半の1曲目がDA PUMPの「U.S.A」で幕開けだったんですよ。悪夢でしたね。大晦日も植民地ソングを聴かされて。あの曲を聴くと、自ずと今井絵理子も浮かんでくるし。


本当に。映画作品そのものはそのものとして評価すべきだと感じますが、我々のものの感じ方については、我々自身、何かの影響下にある側面にも目を向ける必要が無いだろうかというのは時々感じます。

洋画を見る機会の多い私は、自分のそのチョイスの理由が気になる事があります。

 

 

「イムジン河」との比較。

 


昨日2月18日(火)の夜、NHK-BSプレミアムで放映された「アナザーストーリーズ『時代に翻弄された歌 イムジン河』」を、「パラサイト」のことを考えながら観ていました。

僕は加藤和彦さんが好きなんですが、フォーク・クルセダーズの「イムジン河」を、当時の人はどのように聴いていたのかなあと思ったんです。

ひとつには「お隣さんの国で悲しいことが起きている」ということですね。関心があり、興味があり、韓国や北朝鮮の人々に思いを馳せる。この曲自体は北朝鮮で生まれたものですが、フォークルをきっかけに、北朝鮮や韓国でも歌われるようになりました。

キム・ヨンジャさんは2001年の紅白で「イムジン河」を歌っています。一昔前は韓国の演歌がとっても親しまれていて、僕の父親世代はスナックでチョー・ヨンピルさんの「釜山港へ帰れ」を熱唱したもんです。

コブシの使い方、メロディー、アレンジ。日本の演歌と変わらないんですね。韓国と日本。海外から見ると、本当に似たところの多い国です。違うところの方が少ないんじゃないかな。

「イムジン河」と「パラサイト」ですが、「お隣さんの国で何が起きているんだろう?」と思う訳ですよ。

 

 

演歌を共有しているエリア。

 


演歌は、日本と朝鮮半島に独特の文化のようですね。古い時代のことを言うと、日本の民謡は演歌とは大分違います。演歌は戦後に隆盛を極めた大衆文化という感じですかね。

大正~戦中は、モダン以前のジャズや月の沙漠とか青い山脈みたいな曲が主流と言うイメージがありますし、戦後も当初は進駐軍の影響でジャズやマンボみたいなものが流行ったイメージがあります。


おお、流石!そうなんですよ!僕は三橋美智也のような、コブシをあまり使わない高音の澄んだ歌声が好きなんです。相馬民謡の歌い手に通ずるものがあるんですよ。ミッチーの代表作・1960年の「達者でナ」も、全くもって民謡の唱法です。

 

 

半島に出よ。

 


演歌は何故、戦後日韓で同時に隆盛を極めたのか?これは面白い疑問ですね。ジュディ・ウォンとかテレサ・テンの有名曲はやっぱり濃い演歌っぽさは無いですよね。


戦前戦中から演歌があったと思い込んでいる人、多いんですよね。


そうそう。以外と新興の文化なんですよね。しかし、その歌詞から思い浮かぶイメージは、日本海の波濤やら、乾いたイカなど裏日本オリエンテッドで、その先にあるのは朝鮮半島です。


あっ、そうですね。太平洋には向かっていない。日本海だ!弥生人や天皇は、朝鮮半島にルーツがあります。


どこか、古い歴史に根差した血筋に思いを寄せるようでもあり、その事が演歌を古くからあると感じさせるのでしょうか。

 

 

隣人が、何を描くか。
気にならないわけが、ない。

 


そこで「パラサイト」を楽しく観たんですが、やはり日本といろんなところが似ているなあ…と思いました。加えて言うと、世界中の人がこの映画に共感しているのも、驚くほど似ている点が多かったんでしょう。

中国映画「象は静かに座っている」も、共通点が多かったですよね。日本と同じで、学校にいじめがあり、その様子をSNSにアップする。

これにケン・ローチさんや是枝さんらも加わって、貧困・閉塞・分断・格差などを描く流れがあるんですが、その中で僕が「パラサイト」に思うのは、すごくよく似たお隣さんの国が、この状況をどうとらえ、どう描き、どう突破していくのか。そして、素晴らしい映画にしていくんか。関心を持たないわけがありませんでした。


世界が、土着性を微かに残しながらもコミュニケーションの基盤を共有するようになったのは大きいでしょうね。東京でもバスや電車で東アジア東南アジア南アジアの人々がコードレス電話で一見独り言なIP国際電話で話して、SNSで家族の近況を確かめています。

今回のパラサイトで気になったのは、やっぱりリアリズムを採らなかった事ですね。パク・チャヌク「お嬢さん」の猟奇的世界ほどではないですが、話題作りのポイントである突拍子もない設定はあの猟奇性に近いと感じました。

 

 

リアリズムvs.非リアリズム。
ローチ・是枝・タルデンヌと、ポン。

 


野宿者の嶋さんも指摘した点ですね。


変態のアンダーグラウンドな世界性を、変態っぽさを抜いて、本当に地下だけにした。陽が当たらないだけで、日の目を見ないだけで十分というわけです。


リアリズムを推し進めるのであれば、是枝さんやローチさんが浮かびますが…。


そうですね。貧困は貧困でも、描き方はケンさん、是さん、タルデンヌ兄貴と弟の目指す方角と大分違います。


「陽が当たらないだけで、日の目を見ないだけで十分」。分かります。その落としどころに不満を持った観客も多いはずです。

 

 

ネタバレ箝口令は、あざとさなのか?

 


そしてもう一つはドタバタ。貧困が報いようとする一矢をドタバタの中に置いた。あ、これ以上は語ってはいけないですね。監督出演者直々の箝口令が布かれています。その箝口令。


ネタバレに関しては、おっしゃる通りです。どうでもいいような話です。敢えてポン監督に寄り添って言うと、SNSで簡単にネタバレされ、どうでもいいような批評家気取り…それは僕も含めてなんですが、それに対しての「批評」なのかな…。


私としては、最初に語ったようにやっぱりあのドタバタと箝口令に見る資本家の圧力でしょうか。そこが気になりました。この映画は本来ネタバレ云々の映画ではなかったと見えました。そこではないと。

しかし、あの語りを制御するかのように現れた水石も何だかよく分からなくなるようなドタバタが斜めから合流して来るわけです。そして、ネタ、ネタと強調する。


「陽が当たらないだけで、日の目を見ないだけで十分」と表裏一体にある「作戦を立てないことが作戦」という台詞がありますよね。

これはポンさんの言葉でもあり、この作品ではそこまでしか描かないということなんだと思います。だから粗筋自体にも、敢えて作戦を立てていないとも言えますし、逆にその点が世界中に喜ばれている、とも言えます。


穿った見方をすれば、アカデミー賞は、社会問題もエンタメとして描いて採算をクリアできる道筋としての功績に与えられたのかといい方に勘ぐることも出来ますね。


それ!ハリウッドは、そこを手に入れたいわけです。


しかし、そこで描かれた貧困は、エンタメのお膳立てになったとき、貧困ではなくなっていると言う事実もまたあります。荒唐無稽な物語の主人公の置かれた苦境は、概して、苦しめる皆のものではないのです。

一方、ケンさん、是さん、タルデンヌ兄貴と弟の登場人物達の苦境は一つのサンプルで、実際の一人一人に分有されている社会問題なのです。

 

 

リアリズムの追求よりも、
願望や羞恥心の擬人化を。

 


このリアリズムvs.非リアリズムの視点は重要かも知れませんね。例えば寅さんは、今日の我々からすると大分非リアリズムです。でも我々を魅了します。ポンさんの登場人物達も非リアリズム的で魅力的です。貧民を圧迫している富裕層のキャラクターでさえ中々に魅力的なのです。

一方、ダニエル・ブレイクやリリー・フランキー演じるお父さん、移民の死を追うお姉さんはそう言う魅了と言うものはないですね。そう言う意味で言うと、パラサイトは舞台芸術に近いのかも知れません。

一方、ダニエル・ブレイクは魅了も何も、我々自身な訳です。


なるほど…。僕らは貧困に至り、ダニエル・ブレイクのような苦境に陥る可能性は、十分にあります。しかし、金持ちの家に寄生して、彼らを●して、その家の●●で●●する可能性は、現実の世界ではほとんどないわけです。(編集部注:ポン監督からのネタバレ箝口令により、伏字をしました)リアリティーというよりかは、戯画化を重視した映画です。


ポンさんの主人公たちは、我々が自分がしでかした失敗を自分で思い起こして可笑しいなと思っているときの、滑稽味に集約された拡大された自分の一瞬に似ているのかも知れません。


そうそう!うまいこと言う!


トータルで生きている時の選択と少し違った趣がある自分の姿です。その自分は、心理学的な拡大を伴っていて、普段の立ち居振る舞いよりは、願望や羞恥心の擬人化のようなところがありますね。


寅さんは、まさにそれです。だから寅さんは愛されるんです。でもって、親せきにいられたら困る一面もあり。


まさに、シェークスピアとかも凄まじく疑心暗鬼に陥るなど、舞台芸術はそういうところがありますが、闇の中のスポットライトの下に罷り出でた人は、普段の生活の中で見えにくくなった感情に光を当てるところがありますね。寅さんは明るみの中で立ち回っているものの。

第4回に続く…



2020.02.19