二番館へ走れ:第8回 『戦場でワルツを』

 イスラエルのアニメでドキュメンタリー。なんだそりゃ、とは誰でも思うだろう。最近のものを熱心に見てはいないもののアニメが好きで、この国のものに限らず機会があれば見るようにしている。とは言え海外の作品は高評価のものでも国産に慣れた眼にはやはり違和感は強く、面白いと素直には思えない作品が多い。『戦場でワルツを』は「なんだそりゃ」を乗り越えて面白いと思えた例外的な作品だ。

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 八十二年にイスラエルがレバノンに侵攻した。この映画の監督兼主人公(ドキュメンタリーだからね)は当時の作戦参加者だった。ついでに言っとくとイスラエルには徴兵制がある。徴兵制を維持している国は少数派になりつつあるが、残している国は例えば韓国や台湾のように隣国と軍事的な緊張関係にある国であり、イスラエルのように構造的に国内を武力鎮圧する必要がある国だ。監督は友人と話をしていて作戦参加時の記憶がないことに気付き、従軍した友人たちと会って話を聞き、何があったのかを再確認していく。戦争中の体験を再確認するドキュメンタリーの構造から外れていない作りだ。この国の同種のドキュメンタリーも基本的には同じ、戦友と話をする、あるいは自身が取材者に記憶を話すという構造である。

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『ゆきゆきて、神軍』は話者と取材者が取材対象への攻撃意識を共有した珍しい例だが(実は潜在的にはかなりの数のドキュメンタリーがそうなのかもしれない)、それでも埋もらされ、忘れさせようとしていた事実をカメラが掘り起こすという構図は変わらず、肝心の場面が映像として画面に映し出されることはなかった。実際に戦闘を行っている戦場に行くのではないこのタイプのドキュメンタリーは当然のように話している本人がいたその場面の映像を持つ事が出来ない。この映画がアニメであることの意味はここに出てくる。従軍した者たちの記憶にしかない戦場を再現してしまうのだ。実写で再現すればそれはどうしたってフィクション、作り物であり、それを再現するのなら初めから劇映画として作ればいいのに、とは誰もが考える。しかしアニメはカメラを廻すだけで映る訳ではなく、初めから作為がなければ何も映せない、逆に言えばその最初のハードルを越えてしまえば記憶の中にしかない光景をフィクションと指摘されることなく再現することが出来る。何せ初めからアニメは作り物であることが前提なのだから。

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再確認する過程で監督は自分が参加した作戦で何が起きたのかを知っていく。彼は直接参加こそしなかったものの、目の前で無抵抗の住民が虐殺される光景を見ていたのだった。あまりのことに、彼の記憶からその光景は丸ごと消されていたのだ。世界中で迫害され、ナチスドイツではホロコーストを経験しているにも関わらず、なぜイスラエルという国は他者に対して同じことをしてしまうのか。

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さて、この映画は画面を見ている限りではロトスコープのように見える。人が実演したものを撮影し、その画面をなぞって画を描くアニメの技法である。しかしパンフにはそうは書いていないので勘違いかもしれない。何より「再現」は実演するには手間がかかりすぎるしな。人の動作や表情をトレースしている訳で、特徴的な画面になるが僕はあまり好きな技法ではない。なんだか気持ち悪い動きなんだよ。これの一番有名な作品は『指輪物語』。ピーター・ジャクソンの二十年以上前に公開されている。最近では撮影した実景をアダルトヴィデオのソラリゼーションのような画面にして作られたロトスコープもある(『スキャナー・ダークリー』)。

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動きをトレースという発想はCGだのCGIだのという技術にも流れ込んでいて、画面上の異生物を人間で撮影して動作だけ抜き出しCGで被せるモーションキャプチャーというのもある。邦画だと日本人皆殺しというアイディアだけは買うが他は全部何かのパクリでおもしろくない『ベクシル』は全編それだ。一番新しいのは例の『ヤマト』に出てくるガミラス=デスラー。声だけでなくモーションキャプチャーも伊武雅刀がやっていて、とうとう身体も使うようになったかと感慨無量だった。見所ここだけだけどな。

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 シネスイッチ銀座で〇九年の公開時に見ている。年が明けてからもそれこそ二番館でぽつぽつ上映されていたので多分この先も劇場で見ることが出来ると思う。関心のある人は情報誌をチェックすること。今はみんな情報誌なんか見ないでネットか。昨年末に公開されていた『レバノン』は同じくイスラエル側からレバノン侵攻を告発する映画として作られている。文字通り戦車からの視線というのはユニークだが、映画の出来は『戦場でワルツを』の方が上だ。

 戦闘的ゴジラ主義者

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2011.02.07