パターソン

文/写真・鎌田浩宮

1986年・高校3年生の時、初めて映画を監督した。
その時、カットとカットの間に黒味を入れた。
この年日本公開された「ストレンジャー・ザン・パラダイス」に影響されたからだ。
敬愛する仲井戸CHABO麗市も、この映画を好きだって。
嬉しいなあ。

「ゴースト・ドッグ」辺りからジャームッシュは、どのように生きるべきかということを描くようになった気がする。
武士道の葉隠をモチーフにし、人生をどのように考え歩むかを模索し始めたというか。
でも、前作「オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ 」はつまらなかった。
もう、ジャームッシュは駄目かもしれないと思った。

一方僕は、東日本大震災で日常というものを失ってしまった。
息子同然だった愛猫をなくし、仕事を失い、幾人かの友人と別離した。

2011年からつい最近まで、生活を立て直すため、日常を取り戻すために必死だった。
2016年から、仕事を得て、カネが入り、愛猫の死を克服し、生活が回り始めた。
そうするとどうだろう。
人間というものはおかしなもので、ようやく平凡な日常を取り返したのに、もうそれに飽き足らなくなっていった。
ライヴにもっとお客さんが来ないものか、自分の音楽が売れるようになりたい、どうして僕のバンドは脚光を浴びないのだろう。
名声だの、名誉欲だの、そんなものが欲しくなっていた。

49年生きてきて、未だ何もなし得ていない。
このまま、齢を取り、死ぬのか。
僕の人生の、何が間違っていたのだろう。
これからどう生きていけばいいのだろう。
この5年間、考えもしなかったことだった。

街の外れにある、ヒューマントラストシネマ渋谷。
朝1番、10時過ぎの上映。
でも、そこそこ客が入っている。
嬉しい。

スクリーンが、開いた。

こんなに心穏やかなアメリカ人がいるのか、と驚いた。
様々な暴力に囲まれているアメリカ国内でも、穏やかな人はいるのだろうが、パターソンの場合はそれと少し違う。
心の中に平安がある。
その平安はアメリカ人であろうと日本人であろうと、獲得できている人はとても少ない。

主人公は、妻が作ってくれるサンドウィッチのお弁当を、金物のお弁当箱に詰めて職場へ持っていく。
まるでピクニックのようにも見えるけれど、僕の親の世代は、妻の作ったお弁当を持っていったものだった。
アメリカ人もお弁当持っていくんだな…その光景はとにもかくにも微笑ましい。

イタリアを訪れた知人が感嘆していた。
経済は停滞しているのに、人々は日本よりいきいきしているのだそうだ。
週末のサッカー・セリエAの観戦を楽しみにしている、というよりかはそれしか楽しみがないのかも知れないのだが、それで十分。
充足しているというのだ。
この映画で詩を書くという行為が出てくるが、人によっては週末のサッカー観戦だったりするのだと思う。

主人公の運転するバスが故障し、立往生する。
だが主人公は携帯電話を持っていないので、本社に連絡できない。
すると子供がスマホンを貸してくれる。
日本では大人の男性には近寄るなと教育されているので、こんな光景は見られない。
他にも、パターソンと少女が道端で死について語り合う素晴らしく美しいシーンがあるのだが、これも寂しい事に、日本ではあり得ないだろう。
日本では、子供とおじさんが分離している。

ジャームッシュ自らが、自身のユニットで音楽を担当している。
これが、パターソンの心の平安さと全く裏腹の、マイナーコードの電子音。面白い。違和感でしかない。
…日常のすぐそばに不穏はあるのだ、というメタファーなのだと思う。

日常を日常として過ごすことの困難さは、この映画の随所に描かれている。
危機は、すぐそばにある。
不良に声を掛けられる。
犬を盗むことをほのめかす不良。
酒場で色恋沙汰で発砲?
おもちゃのピストルだった。
そして、パターソンの運転するバスが故障し、動かなくなってしまう。

それらの不穏なエピソードの上に、妻の作ったカップケーキが市場でとても売れたんだという話が加わる。
これをジャームッシュが、あまり売れなかったというエピソードにしてしまっていたなら、僕はこの映画をどう捉えただろう?
庶民には、時折だけではあるが、ご褒美のような事が訪れる。
カップケーキが、売れた。
お祝いに、その晩は外食した。
この映画を豊かな作品にするためには、小さな不穏と小さな祝福が日常に入り組んでいる事を示唆すべきなのだ。

この映画では、遂に悲劇は訪れない。
やや危うい不穏が訪れるが、何とか日常は保たれる。
悲劇のない危機のない日常こそが、どれだけ有難いものか。
僕らは、911と311を経験した。
日常が、あっという間に吹っ飛んじまう経験をした。
日常を保てる事の有難さを学んだはずなのに、原発は再稼働し、戦争まで起こそうという政権が支持されている。

この映画に、2001年9月11日と結びつけるシーンがあってもよかったのかも知れない。
だが、それはジャームッシュの仕事ではなかった。
しかしこの映画は、人生においてカタストロフは滅多にやってこない、巨大な悲しみがそうやって来ないのと同時に、巨大な喜びはなかなかやって来ないことを描く事に主眼を置いている。

不穏と隣り合わせに生きつつ、平凡な日常を獲得する事の美しさを描く。
「ストレンジャー・ザン・パラダイス」から幾十年経ったのだろう。
ジャームッシュも僕も、齢を取った。
彼の傑作を、再び観る事ができて嬉しい。


2017.11.28