エプスタ編集長による『大島渚』

文・鎌田浩宮

Nagisa Oshima
1932.3.31 – 2013.1.15

僕は彼の作品を、なんと1作しか観てないです。
もー、彼を語る資格、ないです。

だって、興味をそそられる作品、少ないんだもん。
「愛のコリーダ」で男女の愛欲の極限でポコチンちょん切っちゃってなんて、へえそうなの痛そうだねえくらい。
関心、一切起こらん。
そんなもん金を払って観ようと思わないし、「御法度」の江戸末期のホモ侍なんて気色悪くて、金をもらっても観ないかもしんない。

こんなにエラソーに我が身をわきまえず彼を語るのには、きちんと理由があって。
それは、この後を読んでもらえれば、判ると思います。

 

大島渚
への
唯一
にして
絶対

シンパシー。

 

僕が彼に強烈なシンパシーを禁じ得ないのは、たった1つのある言動のみ。
それは、僕が中学生の頃だったろうか。
渚を始めとした日本の芸術家・文化人と韓国の芸術家・文化人達が、洋上かなんかでだったっけかな、対談をしたんだ。
話が進むにつれ、渚が烈火のごとく怒り出した。
「国を背負って語るのはやめろ。個人として話をしろ。」

何についてどんな話の途中だったのか、という詳細も知らない。
でも、詳細なんぞ知らなくってもいいくらい、渚のシャウトは三軒茶屋の中坊の僕の心にまで響いた。

僕があなたと話をする時、日本人で東京という都会に住み44歳になってもまだ独身で無職で売れない音楽や映画を創っていてエプスタというウェブマガの編集長を営んでいるということを背負って、ものを語るだろうか?

僕が行きつけの「らいえ」という三軒茶屋の韓国料理屋さんでマスターとお喋りをする時、僕は日本人を、彼は韓国人であることを背負って話をするだろうか?

 

領土問題

語り、
失う
もの。

 

この国のあまりにも多くの庶民が、まるで自分がこの国の中心にいる政治家にでもなったかのように、尖閣諸島問題や竹島問題を語り、庶民が何を語ろうと政治が動くわけでもないのに、国交を断絶し戦争でも起こしたいかのような熱弁をふるう。

何を背負っちゃってるんだろうか?

僕が領土問題になんの関心もなく、一切語ろうとしないのは、その領土にいくら船や飛行機が近づこうと、僕には1円の得にも損にもならないし、僕が被害を被る訳じゃない。
損得があって騒いでいるのは、一部の政治家と財界人だけだ。
奴等がどうなろうと知ったこっちゃねえし、奴等に踊らされたくもない。

僕にとって重要なのは、何を背負うこともなく、「らいえ」のマスターと冗談を言い合いながら、美味しいご飯を作ってもらって、そんな楽しく豊かな日々がずっと続くことだ。

 

彼は、
映画という装置で、
何を、
表現
したかった
のか。

 

僕が大島渚の作品で唯一観たのは、「戦場のメリークリスマス」。
キャスティングにびっくりしたからだ。

あの当時、ロックミュージシャンを映画に引っ張り出すのは、既に流行りとなっていた。
内田裕也や宇崎竜童が主演の映画が脚光を浴び、少々手垢のついた感さえあった時期だった。
そこにきて、ロックのメインストリームとは少し距離のある、デヴィッド・ボウイ、ビートたけし、坂本龍一。
内田裕也、三上寛、ジョニー大倉ら、ロック畑も出演はしているのだが、敢えて脇役に徹させている。

渚は、たった1人で坂本龍一に会いに行き、出演をお願いしたそうだ。
背負うもののない人の、行動だ。

そしてそれは、背負ったもののないキャスティングとなった。

当時、渚は
「映画を通して何を表現したいのか」
と坂本龍一に訊かれ、
「コミュニケーションというものですよ」
と答えていた。

「戦メリ」の後、渚はオール外国人キャストで、なんと女性とチンパンジーが恋愛に陥る
「マックス・モン・アムール」
という映画を撮っている。
正に、究極のコミュニケーションというものを考察していたのだ。

最後にもう1度話を戻すが、かつて侵略されていた側が相手を慮り、
「国を背負って語るな。個人として話せ」
というのではなく、かつて侵略していた側が遠慮することもなく、
「国を背負わず、1人の個人として話そう」
といったところも、特筆すべきなのだ。

1人の人間が、ただ1人の人間として相手の懐に入り、コミュニケーションを取り、よからば友情をも結ぼうとする際、何かを背負って接する事の愚劣さ、背負わない事の身軽さ、精神の自由さを理解していた大島渚を、心から敬服します。

合掌。


2013.01.22