エプスタ編集長による番外編『希望の国』

写真/文・鎌田浩宮

「青いソラ白い雲」

並び、
2012年ナンバーワン

映画。

実は園子温の映画を観るのは、初めてで。
僕が浅はかなのもあるんだけど、
彼の描くテーマに、それほど興味が沸かなくって。

ちょうど僕が自主映画を創り始めた頃、
彼は詩のパフォーマンス「東京ガガガ」や
自身を撮影対象とした映画「俺は園子温だ!」
で、脚光を浴びていたんだけれど、
何しろ当時の僕はテクノポップ少年で、
汗臭いのは大嫌い。
(汗臭い、っていうのはつまり、自我を受け手に叩きつけるということですね)
僕はRCサクセションも同じくらい大好きなんだが、
清志郎、チャボ、そしてRCというのは
「ロックは汗だぜ!」
みたいなバンドではなかった。
そんな影響もあって、園を今まで完全に食わず嫌いしていたんです。

園が、金子修介監督の「青いソラ白い雲」と
同時期に同じ原発事故というテーマで映画を完成させた。
(「青いソラ白い雲」の映画評は…こちら!)
よくスポンサーを見つけられたなあ
(実際、海外からの出資が2割だそうです)、
よく上映館を見つけ出したなあ、
それだけでも称賛に値することなんだけど
一体どんな映画なんだろう、
松竹の傘下にある、新宿ピカデリーというシネコンに飛んで行ったさあ。

映画の日で千円だし、他に話題作があるのかな?
にしても、平日の昼間なのに混んでるど。

301ある客席は、9割がた埋まっている。
この映画への関心が、伺える。
脱原発は景気上昇になるぜ、経団連のお偉いさんよぉ!

 

あらすじ(公式サイトより)

http://www.kibounokuni.jp/

舞台は東日本大震災から数年後の20XX年、日本、長島県。
酪農を営む小野泰彦は、妻・智恵子と息子・洋一、その妻・いずみと満ち足りた日々を送っていた。
あの日が来るまでは。
長島県東方沖を襲ったマグニチュード8.3の地震と、それに続く原発事故は、人々の生活をたちまち一変させる。
原発から半径20キロ圏内が警戒区域に指定される中、強制的に家を追われる隣の鈴木家と、道路ひとつ隔てただけで避難区域外となる小野家。

だが、泰彦はかつてこの国で起きた未曾有の事態を忘れていなかった。
国家はあてにならないと言い、自主的に洋一夫婦を避難させ、自らはそこに留まる泰彦。
一方、妊娠がわかったいずみは、子を守りたい一心から、放射能への恐怖を募らせていく。

「これは見えない戦争なの。弾もミサイルも見えないけど、そこいらじゅう飛び交ってるの、見えない弾が!」

その頃、避難所で暮らす鈴木家の息子・ミツルと恋人のヨーコは、消息のつかめないヨーコの家族を探して、瓦礫に埋もれた海沿いの町を一歩一歩と歩き続けていた。

やがて、原発は制御不能に陥り、最悪の事態を招いてしまう。泰彦の家が避難区域となり、強制退避を命じられる日も刻一刻と迫ってきた。
帰るべき場所を失い、放射能におびえる人々。
終わりなき絶望と不安の先に、果たして希望の未来はあるのだろうか?

 

筆致力。
追体験

ため
の。

 

僕がこの映画を薦めるのは、原発反対を訴えたいからでは、ない。
これまでにテレビで放送されたどの良質なドキュメンタリーよりも
福島の人々が味わった恐怖を追体験できるからだ。

追体験と言っても、
この映画は別に3Dでもないし、
現実のニュース映像も挿入されてない、
CGで地震を再現してもいないし、
それどころかガレキも少ししか映らない、
ありがちなスローモーションの多用やモノクロ反転、
細かいカット割りも、引きの長回しもない、
あらゆる技巧は使わず、オーソドックスそのもの。

奇想天外なストーリーも、ないんです。
僕らが、311以降マスコミを信頼せず、
フェイスブックやツイッターや、
東京新聞などごく僅かの良心的なメディアなどで
希少種の昆虫採集をするかのように慎重に収集した情報と、
ストーリーは、何も違わない。

しかし、地震が起こり、
津波のあった地区の友人に電話が通じず、
原発のニュースはいくらラジオを聴いても発表されず、
すぐ戻れるからとかばん1つだけで体育館に避難し、
少しの隙間もないほどの人波を歩き家族を探し回り、
壁中を埋め尽くした尋ね人の貼り紙、
放射能で2度と戻れなくなった自分の家、
安全とされた避難先の地元民の母乳からセシウムが見つかり…。

これらのシーンが、
決して押し付けがましくなく、
淡々と描き突き放すわけでもなく、
極めてオーソドックスな描き方なのに
まるでそこにいるかのような、体感。

僕はこの夏を、福島県相馬市で過ごしたんだけれど
(なんと僕も、原発を題材にした映画の撮影で来ていたのよ)、
ある日の深夜地震が起き、
「原発は大丈夫か?」
と恐ろしくなり、しばらく眠れなかった恐怖。
それと同じ体感が、この映画には、在る。

これは、園が綿密な取材を重ね続け、
フィクションはほとんどなく
実話を元に作られた脚本であり映像だからに違いない。

園は、そこから昇る朝日が見たいと、
2011年の大晦日さえも、福島県南相馬市で過ごしたほどだ。

 

ドラマ

奪還
する
方法。

 

ここ数年、劇映画よりもドキュメンタリー映画が脚光を浴び
上映する映画館もかなり増え
実際、原発をテーマにしたドキュメント映画も
既に多くの作品が、日本各地で上映されている。

現実がドラマよりも遙かに過激で過剰な現在、
ドラマはドキュメンタリーにはかなわないのではないか、
と思われてきた。

しかし、それは違った。

園は言っている。
「原発事故で自殺した酪農家に、ドキュメンタリーで語らせることはできないでしょう。でも、映画ならできるのです」

園がこれまで撮ってきた映画におけるテーマ、愛・性・暴力などは、
要は園の綿密な取材による、圧倒的な筆致力ゆえのリアルさだったのだろう。
311以降、その対象が、原発になった。

映画の中で、電力会社は
「日本電力」
と架空の企業に置き換えられているし、
事故が起きたのは
「長島県」
となっている。
この理由の中には、実名を出すことにより
出資者や上映館が減ることを考慮したことも含まれているだろう。
しかしだよ、
そんなことで、筆致力によるこの映画のリアルさは、
1ベクレルも減衰などしないのだ。

リアルさということで言えば、
大地震の後、主人公及び周辺の家屋が半壊さえしていないのを
不自然に感じた観客も、多いのではないかしら?
あらら、予算が足りなかったのね、CGも使えなかったの?って。

でも、僕が福島県相馬市に行った時も、実際はそうだったんです。
津波に襲われた家屋は破壊されているんだけれど、
それ以外の家屋は、予想以上に健在だったんです。

園子温が書いた詩を、失礼ながら無断で掲載します。

 

「数」

まずは何かを正確に数えなくてはならなかった。草が何本あったかでもいい。全部、数えろ。

花が、例えば花が、桜の花びらが何枚あったか。

(中略)

涙が何滴落ちたか、その数を調べろ。今度またきっとここに来るよという小学校の張り紙の、その今度とは、今から何日目かを数えねばならない。その日はいつか、正確に数えろ。もしくは誰かが伝えていけ。

(中略)

「膨大な数」という大雑把な死とか涙、苦しみを数値に表せないとしたら、何のための「文学」だろう。季節の中に埋もれてゆくものは数えあげることが出来ないと、政治が泣き言を言うのなら、芸術がやれ。

(後略)

こうした筆致力があるので、
映画の中盤、妊婦が放射能を恐れるあまり
あの宇宙服のような防護服を常に着て屋内外を過ごし
産婦人科へまでも防護服で訪れるシーンも
全く笑えないどころか、
かえって妊婦に寄り添い、共感し、しまいには、
この東京で日常、防護服を着ていない僕自身がおかしいのではないか
と感ずるほどに、スクリーンにのめりこむ。

この部分は、黒澤明が三船敏郎と組んで創った、
世界各地での原爆実験による放射能を過剰に恐れるあまり
ブラジルへ移住しようとする、陰の傑作
「生きものの記録」
と見事に重なる。
(クロサワにこんな作品があるの、知らなかったでしょ?)

情報は統制され、事実は報道されない。
311以降から、これは悲しいけれど戦時下であり、
まともな感受性を持った防護服の女は、気狂い扱いされちまう。

ラストシーンに、国内外から賛否両論がある。
その描き方は、もう一方の傑作「青いソラ白い雲」とは全く異なる。
こういうラストにしたせいで、海外映画祭の受賞を逃している、とも言える。
でも、このラストさえ、事実に基づいたものだということを
忘れてはならない。
そして誤解を恐れずに書けば、
このラストシーンに、園のロックンロールさえ感じる。
全てはファック・ユー、ファック・ユーだ、と聞こえんばかりの。

この映画の主人公の妻は認知症で、
「帰ろうよ」
と言うのが、口癖。
この帰ろうとする場所が、地理的な場所を指すのではなく
時間的な場所、つまり過去を指している。
この妻の設定さえ、事実に基づいているんです。

僕らはもう、原発のない過去には、帰れない。
絶望の果てにまで、来てしまった。
もう、この国には、希望しか残っていないんです。


2012.11.05