エプスタ編集長による番外編『スケッチ・オブ・ミャーク』(前編)

文・鎌田浩宮

上映後

おろか、
上映中

拍手
して
しまった
映画。

ミャークというのは、沖縄の宮古島のこと。
僕、沖縄が大好きで、日本最南端の波照間島や、日本最西端の与那国島も含めて、かなりの島、巡ったんですが、ああ悔しい、宮古だけは行ったことがなくって。

えっ?
キャマダ、沖縄行って、何すんだって?
ずっと、佇んで、空気を吸い込んでるだけだよ。
だって、寅さんは、スキューバやらないっしょ?

どんな島かっていえば、海の綺麗な沖縄の人さえ、宮古へ行くと
「なんて綺麗な海なんだ!」
と驚嘆するほどで。

昔、「浪花ノ栞立体版」という弩阿呆なイヴェントで沖縄についてトークをしていたら、宮古島出身の青年が飛び入りしてきて、
「よっぽど頭に来るとね、真夜中に舟の上でケンカするの。で、海に突き落として溺れ死にさせちゃう。警察にもバレないし、そのまんま」
とか泡盛呑み呑み喋りまくり、会場をひっくり返すほど抱腹絶倒させたんだよなあ。
もー、その青年自体が、無法。法外。破壊的宮古ゲンジューミン。
一体、どんな島なんだ。
そこにいた客全ての脳裏に、キョーフを焼き付けられただろう。

 

溺死。
御嶽。
アフリカ

段階。

 

吉本隆明の説では、人々が暮らす全てのコミュニティーは、アフリカ的段階からアジア的段階を経てヨーロッパ的段階へ行きつくんだそうで、そこから逃れられる例外はないんだそうで、なるへそお、と思ったもので。

例えば、
アフリカ的段階では、人々は自然の中で暮らし、
アジア的段階では、公園などを造り自然を区切り、
ヨーロッパ的段階では、ビルの中に庭園などを造り自然を内包する、
といった具合です。

この理論でいけば、次第に宮古の海も他の沖縄の海と同じくらいになり、人を殺せば逮捕されるようになるっ!てな訳だよお兄さん。

沖縄は、かつての日本がそうだったように、自然崇拝、精霊信仰、先祖崇拝が今でも日常に、生活に、根付いてます。
そして、内地の神社や寺に相当するものに、御嶽(うたき)というものがあります。
しかし、多くの御嶽には鳥居や門や建物さえなく、宮司も坊主もおらず、石が1つ、ぽつんと置いてあるだけだったりします。
いや、小石さえない御嶽も、沢山ある。
そこで、お祈りを、する。

こういう、素朴なところ、たまらなく好きなんだよなあ。
ヨーロッパ的段階に行き着き、システマティックな宗教組織になる前の段階。

そもそも、僕がなぜにそういった信仰を信じるのかと言えば、諸々沢山理由はあるんだけれど、1つだけ挙げれば
「信じた方が、楽しく生きられる。豊かに生きられる」
に尽きます。

ちなみに僕は、宗教には一切興味なし、です。
“above us only sky” って歌があるでしょ。

 


は、


まんなか、
歩くな。

 

これ、御嶽の写真です。
撮った人、神様に怒られないかしら。
掲載している僕も、怒られるかも知れません。

どうぞ、お赦し下さい。

御嶽に入れるのは大抵女性のみ、男子禁制。
神社の宮司が男性なのに対して、御嶽で神事を執り行うことが許されるのは女性だけ。

薩摩支配下の琉球王府による人頭税の厳しい取り立てもあり、自然環境が厳しく作物が育ちにくく、選ばれた女性は御嶽にて徹夜で何日も祈りや歌を捧げ、自然を畏れ敬い、作物や漁業の無事を願ったんです。

こういった神事がどれだけ大事なのかっていうと、今から10年以上前かなあ、沖縄本島近くの、久高島に行った時。
久高島は、大昔から沖縄本島を守るための神事を行う、小さいながら重要な島で、観光地化もされていないし、スーパーもなければ、当時は民宿さえあったかどうか。

そうした久高島の文化に触れたくて行ったんだけど、ちょっとした神事のある日に行ってしまった。
島の人から、決して島の真ん中など歩かないように、特に男は端っこだけをそっと歩いて過ごすようにと強く言われ、見たかった御嶽のそばなどもちろん行けず、正に端っこの海岸線に沿って歩き、海とじゃれ合うだけで帰ってきたんです。
知らない人が、知らない人に、これだけ強く注意するのだから、神事は相当なこと。

だからこの映画には、大層驚いたのなんの。
宮古島の御嶽にカメラが入り、神事を撮影したっていうじゃないの。
絶対に、あり得ないことです。

今、記録に残さないと、もう後がない。
壮絶な、危機感。

そもそも、宮古に神事の風習がまだ残っているなんて、知らなかった。
神事で沖縄一有名な久高島でさえ、もう、すたれてしまったのに。

選ばれた女性は、1年365日の大半を神事にまつわることに取られ、その圧倒的な労苦から、久高では後継する若い女性が島から出て行ってしまったほど。

また、この映画に驚いたのは、神事の際に歌われる神歌や、労働の際に皆で歌う古謡を、80代、90代のおばあたちにカメラの前で歌ってもらい、収録したこと。
こういった歌は、譜面にはなっていない。
全て口承で昔から伝えられたもので、歌える人が残り少なくなっているのだ。

 

そば屋

アヘン戦争
歌える
豊かさ。

 

古謡で思い出すのは、石垣島を旅していた時。
もんのすんごおく古い歌を歌えるおばあが、そば屋をやってるってんで、探して捜して、行ってきた。

そうだ、公設市場の近くの、真仁屋そば屋だ。
それにしても、僕はどこからそんな奇特な情報を仕入れておったのか。

歌ってくれたねえ。
「アヘン戦争」とか、そういう戦前の歌謡曲のようなもの。
もったいぶらずに、そば一杯で何曲でも歌ってくれるの。
嬉しかったなあ。
だって、アヘン戦争って、1840年頃にあったんだよ。
その歌の数々、あんまりにも貴重で、東京大学のエライ人が調査に来たくらいで。

おばあ、まだ元気かなぁ…。

さて、宮古のこういった歌たちを発見し映画化たのは、ミュージシャンの久保田麻琴。
’70年代にいち早く、細野晴臣と共に沖縄音楽の虜になり、
「ハイサイおじさん」
を内地に紹介し、自らもカヴァー。

その後は、テクノポップをふんだんに取り入れたバンド、サンディー&ザ・サンセッツを結成。
「スティッキー・ミュージック」はオーストラリアのヒットチャート、ベストテンにも入った。
当時10代だったキャマダ君、夢中になって聴いたもんです。

その後は東南アジアのミュージシャンをプロデュースしたりして、ワールドミュージックのボス的な存在へ。
さらにその後はアメリカのルーツミュージックを辿ったり、阿波踊りを探ってみたり、縦横無尽の人。

これはテクノから遠く離れ、骨太の王道ロック。
’99年に細野晴臣と組み、アメリカの著名ミュージシャンとセッションしたユニット「ハリー&マック」のアルバム「ロード・トゥ・ルイジアナ」より。
僕の長年の愛聴盤です。

久保田麻琴の好きな曲を挙げると、キリがない。
この辺で、ストップ。

さて、そんな久保田麻琴が、宮古の神歌・古謡がなくなってしまうことに危機感を覚えたわけです。

…、ダメだ。
沖縄を好きすぎて、文が長くなる。
この文、後編へ続きます。

http://sketchesofmyahk.com/


2012.11.19