要キャプション。

ダイロクでおしゃべり 第1回

お相手/呉英哲(オ・ヨンチョル)校長先生
文・写真/鎌田浩宮

 

2019年11月16日(土)に開催された、東京朝鮮第六幼初級学校の公開授業。
その時の話は、こちら「1800ミリリットル、朝鮮学校公開授業」に書きまして。

その後、あの話も聞きたい、この話も聞いてみたいと、思いはドシドシ膨らみ、ついに再訪してしまいました。

少し早めに千鳥町(ちどりちょう)駅に着くと、お楽しみ。
美味しそうなお店はないかな?居心地のいい呑み屋はないかな?とヨコシマ全開で、散歩を楽しみます。

そして大田区立千鳥小学校があり、そこから歩いてすぐそばに、東京朝鮮第六幼初級学校があります。

 

 

新しい。
デザインが、いい。
実際に中へ入っても、居心地がいい。
2015年に、改築されました。

ちなみに、創立は1946年。
この地に移転したのは、1949年。
多くの朝鮮学校は、1945~6年にできたそうです。

では、呉英哲₍オ・ヨンチョル₎校長先生へのインタビュー、開始です。

なお、呉先生に関する記事が、つい先日の東京新聞「<橋をかける 分断を超えて> (2)在日朝鮮人人権協会事務局長・金東鶴(51)」に掲載されています。

 

 

先日の公開授業、反響はいかがでしたか?

「去年の5月から実行委員会を開きました。半数以上は日本の方々なんですよ。定例会を重ねて当日を迎えました。当日は大田区の教育長もいらしゃいました。」

僕は、東京新聞の地方面で知ったんです。

「120人までいったのは、東京新聞さんで記事にしていただいたおかげですね。当日は、どうでしたか?」

「1800ミリリットル、朝鮮学校公開授業」でも書きましたが、暖かい日差しの中で、2歳の子供たちが、楽しそうに過ごしている。あの時は秋だったので、いも掘りや栗を取り上げた授業だったでしょうか。

この子たちはどこの国に生まれ、どこの国籍かなんて、知る由もありません。この子たちが差別を受けていいわけがないと思い、涙が出てきました。(実は、インタビューのこの時も思い出して涙が出ています)

「そう言っていただければ…。こんなにたくさん日本の方に注目してもらえて、子供たちも嬉しかったんじゃないですか。教師たちは、いろんな緊張を持って当日を迎えましたが、子供たちは日本の社会に生きているので、こうなるんだろうと…この空気が当たり前だという感覚があるかも知れませんね。」

 

 

準備から当日まで、アクシデントはありませんでしたか?

「ないです。地域のつながりを密にしていますし、嫌がらせはなかったです。抗議の電話もなかったです。この周辺の地域の方々が協力して下さっていますし、優しい目で見て下さっています。」

よかった!当日は、我々参加者を教室へ案内し、解説して下さったのは

「PTAに当たるオモニの会です。日本人のオモニもいらっしゃいますし、日本国籍の子供もいます。ちなみに、阿佐ヶ谷にある東京朝鮮第九初級学校では、学校を支える『サランの会』もありますし、杉並区議会の方も助けて下さっています。公開授業をきっかけとして、支援会を第六でも作れないかと動いています。」

公開授業の後は、焼き肉交流会もあったんですよね~。

「子供たちの指導があるので、教師は飲食できませんでしたが、父兄が輪の中に混じって、参加者の皆さんと食べて飲んで、交流をしましたよ。日本の地域社会の中で、地域の中の学校として、そのほか7月には納涼祭、10月には交流祭を行い、近所の方々もお越し下さっています。」

日本の公立小学校だと、セキュリティーの問題で、パスを持っていない人は入れません。僕も、パスを持っていなければ、母校の授業参観は入れないんじゃないでしょうか。その点、こちらは開かれているし、自由な空気が流れています。居心地がいいんです。

「遠足の電車の中で朝鮮語を喋っていると『ちょっと特殊な目で見られているのかなあ』という視線を感じなくもないですが、でも、温かく見守ってくれているのかなあと思います」

なるほど。

「普段は、授業も休み時間も朝鮮語です。一歩学校を出れば、子供たちは日本語に戻りますから。家の中でも家族皆さん日本語ですし。」

そうですよね。普段楽しんでいるテレビもマンガも映画も、日本語ですもんね。

 

 

「授業は、日本の学習プログラムに準じてやっています。それに加えて朝鮮の歴史や朝鮮語などを勉強しています。」

授業はすべて朝鮮語でしたね。

「子供たちは4世・5世です。いつ、どうして日本に来たのか?日本で生きるようになったのか?朝鮮ではどのあたりに住んでいたのか、祖父祖母やお父さんお母さんに聞いてみよう、といった授業も行います。」

大切なことですよ。

「私は3世なんですが、当時朝鮮は日本の植民地でしたから、生活の場を求めて日本に渡ってきて、最初は呉、そして生野、そして東京だったんですが、そういったパターンが多いんですよ。」

大阪市の生野!僕も先日、生野と鶴橋へ行ってきました。興奮しましたよ~。那覇の平和通りもそうなんですが、あのアーケード街の風景は、子供の頃の記憶に近い、懐かしいものなんですね。

「日本に生きていく中でのアイデンティティーとなると、言葉と、自分は何者なのかを分かることです。授業を通して、それらを学んでいきます。日本の社会に貢献するため、日本という舞台で活躍するうえで、自分は何者なのかを認識していないと、駄目ですよね…」

だから、日本の小学校に比べて授業数が多い…時間割がたっぷりですね。

 

 

「この子たちは、1世や2世の頃の歴史を生で聞いていないわけですよね。お母さんお父さんも、そういったことを勉強してほしいと、この学校を選んでいます。」

僕の世代も、戦争の話を直に聞いていない場合がほとんどです。

「日本の学校に通っていて、朝鮮学校には通っていないケースもありますが、親御さんたちも基本的には朝鮮学校を卒業されている方が多いので、子供もそこへ入学させたいと思うんですよ。」

そうなんですね。

「朝鮮学校というのは、コミュニティーの中心にあるんですよね。何かあった時には、学校。学校がなくなっちゃったら、地域のコミュニティーがなくなっちゃう。子供だけじゃなく、親が集まれる所もなくなるんです。学校だけは守らなくちゃという意識がありますね。」

東京都23区の南西部は、この学校だけですね。

「なので電車やスクールバスを使って、川崎や横浜からも通ってきます。理事会の職員や地域の同胞が、運転をしてくれています。立川にある学校ですと、もっと広域になります。親御さんからすると、通うだけの価値があるわけです。幼稚園もあるので、スクールバスはぎゅうぎゅう詰めですけどね。」

 

 

先生方も忙しいですよね?

「日本の先生も大変じゃないですか?実務が多くて。教員数も足りないし、1クラスの児童数も多いし。ただしこちらも、遠くから通っている先生もいますし、日本の先生の悩みと同じです。雇える人に限りがあります。区から助成金はありますが、多くの費用を自前で運営しているので。」

高校無償化から除外されたことはニュースで知られていますが、幼級や初級・中級も?

「朝鮮学校は、朝鮮語を教える私塾として始まりました。多くは1945~1946年です。しかし今は、各種学校としての扱いです。1948年には阪神教育闘争といった、GHQと日本政府が朝鮮学校を認めず強制退去…といったこともありました。」

では、自治体からの助成金は?

「東京都からの助成金は、石原都政の時になくなりました。今は大田区の助成金のみです。23区はしっかりしていますが、ほかの自治体では助成金がない場合もあります。そんな中で、大田区が初めて助成金を始めたんじゃないでしょうか。我々が地域に溶け込んでいるからではないか、貢献度が高いからではないか…」

 

 

校庭開放は、その一環なんですね。

「地域に貢献しているという自負があります。夕方5時から9時くらいまで、有償ではありますが、フットサル場として校庭を開放、多くの方に利用していただいています。地域に利益をもたらす学校として、自信があります。子供たちも、地域の一員だという認識があります。」

僕も子供の頃は、校庭開放で遊びました。

「民族教育をやっているので、特異な目で見られる方もいらっしゃいますが、どこの国もいろんな方が住んでいて成り立っている。だからもう少し学校をオープンにし、情報を発信することが、朝鮮学校の役割です。」

第2回へ続きます…。


2020.01.27

弐千弐拾年乃御挨拶似候

文・鎌田浩宮

 

隠居宣言

お正月だというのに、
とんちきな話をします。

隠居、しています。

敬愛する横尾忠則さんであれば画家宣言ですが
才能も行動力もない僕であれば
隠居宣言くらいしか思いつきませんで。

隠居の思いが強くなったきっかけとしては
一昨年と去年立て続けに
同い年の友人2名が亡くなった事。

2人とも40代の頃から
長い闘病生活を送り
50歳で亡くなったわけです。

一般的には60歳で定年退職となりますが
この事を照らし合わせると
そこから自由を得ても
遅いんですね。

 

 

加えて
地球温暖化による異常気象や
香港やロシア(や日本)などを覆う新全体主義。
今すぐにアクションせねばならない事が
すぐそこにあります。

こりゃあ、働いてる場合じゃねえな。

収入はなくなるものの
満員電車に乗らず
好きなだけ新聞を読み
オンタイムで「やすらぎの刻~道」を観て
夕方からつまみを作り
風呂に浸かりながら夕焼けを愛で
6時から広島東洋カープの試合を観る。

時には
実家の老猫の世話を焼き
体調の悪い従兄弟にちょっかいを出し
近所の独居老人と昼酒をなめ
不登校の若者とギターで遊び
台風が来れば電話し
生きているか死んでいるか確認する。

時間があるものだから
朝鮮学校にお邪魔し
野宿者の方へ原稿執筆を依頼し
駅前のマンション建設に睨みをきかせ
親戚が死に至った新興宗教の問題を調べ
ユニセフの毎月寄付を始め
被災地へふるさと納税を納め。

身近な事へ目を向ける事によって
その向こうにある温暖化や香港についての
アイデアが浮かべばいいな…と。

 

 

どこから覗いてみても
褒める部分のないジンセーでした。

51年生きてきて
野球で言えば
最終回の9回裏が終わり
既に試合は終わってしまった。

残されているのは
エキシビションとでも言いましょうか
点数には加算されない余技のよーなもの。

しかし
隠居生活を始めてみると
これまでの不眠症が収まり
数十年ぶりに8時間の睡眠が
かなうようになったんです。

ストレス発散が原因のやけ食いもなくなり
体重も減りまして。

20代から患っていた
不安神経症(パニック障害のようなもの)
もほぼなくなってしまい。

僕は物心ついてから
両親の喧嘩や暴力を見て育ちました。
振り返ってみると
これほどストレスの少ない生活は
51年間の半生で初めてなのかなあと。

 

 

もちろん、
誰もができる事じゃござんせん。
幸い
誰彼から惚れられる事もなく
所帯を持つ幸せもなく
寅さんのような独り身だから
勝手ができるわけです。

アリとキリギリスで言えば、
まったきキリギリスです。
僕の晩年は貧困と飢餓で
のたうち回ってくたばる事になるでしょう。

なので
金がなくなれば
去年までのように働く事となるでしょう。

しかし
今のこの暮らしは、たまらない。
手放すなんて、もったいない。
人間らしくて、力まない。

守るべきものがないというのは
寂しい事と捉えがち。
でも、
僕にとってそれは
豊かな事なんです。

隠居生活の中で作る音楽や映画は
これまでと違うものになるでしょう。
こんな初老を
今後ともよろしくお願い致します。

 

エプスタインズ非代表取締役社長・鎌田浩宮

 


2020.01.01

1800ミリリットル、朝鮮学校公開授業

文/写真・鎌田浩宮

先日、コーシーなんぞを淹れながら、いつものように新聞を読んでおりますと「とあるところの朝鮮学校が、公開授業を開催しますよ」という記事が載ってありまして。
おお、珍しいな、それは行かなくっちゃ、となりまして。
行ってきたんです、朝鮮学校。

この度お邪魔させていただいたのは、日本のシステムで言う幼稚園と小学校が併設された、幼初級学校というものでした。最長で、2歳から12歳までを過ごす子もいるというわけです。

町ん中を歩いて行くと、校庭が見えてきました。
僕の通っていた都内の小学校の、半分前後の広さでしょうか。
運動会のリレー競争などには、狭そうに感じました。

校舎に入らせていただくと、100人以上の参加者でにぎわっています。準備会の方々や先生方が、丁重にごあいさつしてくださいました。

後でご説明してくださったのですが、図工室と音楽室は兼用、図書室はなく、廊下に₍ハングル順ではなく₎アイウエオ順で本が置かれていました。学習まんが「日本の歴史」も全集そろっています。

体育館はなかったかな…、校舎内1階中央に、バスケットボールができるほどのスペースがありました。プールもなかったのではないかと思います。

朝鮮語の授業があり、日本の学校と同じ分量で日本語の授業もあります。なので、トータルの授業時間は多くなります。そして、この学校の全生徒は漢検を受けます。また、かつては東京都立の朝鮮学校があったことも、ここに来たおかげで知ることができました。

参加者は5人ほどのグループに分かれ、準備会の方々らがガイドとなり、2歳児クラスから6年生の教室までを、すべて順に案内・説明してくださいました。

最初は、2歳児クラスです。
暖かな陽の射す教室で、絵本「さつまのおいも」の読み聞かせをしていました。

今から20年も前ですが、僕は世田谷区の保育園でアルバイトをしていました。あの頃の子供たちを、瞬時に思い出しました。
当時すでに紙おむつが主流でしたが、世田谷区では当時布おむつを使っていました。うんちをしたら、僕ら補助係が、それをきれいにします。楽しかったですよ、偽善で言ってるんじゃありません。

お父さんにはなつかないのに、僕にはなついてくれた子がいました。

またある子は、帰り道が一緒になり、「先生うちに上がって一緒に遊んでちょうだい!」と言ってくれ、お母さんまでぜひと言ってくださった、でも申し訳ないのでその日はバイバイなんてことも。

周りに手を挙げてしまう子がいました。長い時間ハグをしたら、その後だんだん手を挙げなくなっていきました。その子がある日、保育園の門前を走る自転車にぶつかり、すぐに駆けつけたこと、お母さんが泣いて喜んでくださったこともありました。

₍このくだり、僕の単なる自慢と読めちゃうな。ごめんなさい。そうじゃないんですよ。おそらくこのよーな職業は、こーした充足感が多々あるものだとゆーことです₎

あの時の子供たちも、もう大人になってるんだな、目の前のこの子たちもやがて大人になるんだ、そんなことが浮かんできます。僕は、涙が止まらなくなってしまいました。もう、おっさんの涙は、350ミリリットルほどもあったでしょうか。

僕の中の父性や母性が、顔を出したのかも知れません。子供の笑顔や歌声は、無条件に涙腺をゆるませることがあります。加えて、保育園で働いていたころの思い出。この子たちだけではなく、いらっしゃる先生にも、思い出が生まれていくわけです。さらに加えて、この子たちには、何の罪もありません。どこの国に生まれて来たのか、国籍はどこなのか、そんなことは知る由もありません。

暖かな日差し。肌の色も顔つきも、まったく、まったくまったくまったく、僕や僕の子供たちと変わりないんです。でも、この子たちのほとんどが、そんなに遠くないうちに、いじめや差別、ヘイトスピーチや暴力を受けることとなる。僕の涙には、そんな意味合いもありました。

この子たちが、ひどい目に遭っていいわけがない。あっていいわけがない。いいわけがない。笑顔はこのまま維持されるべきだ。笑顔バンザイ。笑顔賛成。笑顔継続。

朝鮮や韓国、中国や東南アジア諸国を蔑視する人が減らないと仮に想定しても、この子たちを守る人を増やすことは可能なんじゃねえか。僕のようなおっさんを増やすことは、できるんじゃねえか。

僕がティーンエイジャーを過ごした80年代っつーのは、YMOがワールドツアーを成功させ、坂本龍一さんがアメリカ・アカデミー賞最優秀作曲賞を受賞した時代。僕らは何人でもない、日本人でもない、コスモポリタン₍世界市民₎である。それが暗黙の合言葉でした。世界中の人と音楽や映画を作り、世界中の人と恋に堕ち、世界中を闊歩する。僕らにとって差別はダサいものであり、クレバーではないものでした。

公開授業の後、子供たちによる合唱・舞踊・太鼓の演奏などが披露されました。小さな学芸会のようです。ハモりもばっちり!この日のために、一生懸命練習してくれたのでしょう。ひょっとしたら妨害する悪いオトナが乱入するかも知れない、そうなっても歌い続けた方がいのかな、逃げた方がいいのかな、本来ならば考えなくてもいいことが、たくさん頭をよぎったことでしょう。

戦後まもなく開校したこの学校ですが、公開授業は初めてなんですって。準備会を開き、親御さんたちを説得し、安全を確保する。そこまでリスクをしょってでも、僕ら日本人に、朝鮮学校がどんなところなのか、どのような授業をしているのか、伝えようと奮闘されたのだと思います。

学校によって変わりますが、この学校では、2~3日前に連絡をすれば、いつでも授業見学などがオッケーだそうですよ。

今の僕らの国や都道府県・市区町村が、どれだけ朝鮮学校に補助金を出しているのか?難しいことって、調べないと分からないです。でも、校庭がどのくらいの広さなの?体育館やプールや図書室がないんだって?ということは、コミュニケーションを交わせば分かることなんですね。

じゃあ、日本の学校に通えばいいじゃない?という意見もあるでしょう。
ただねえ…僕が父ちゃんだったらねえ…今のいじめは深刻だからねえ…。
日本人同士のいじめでさえ、学校や教育委員会が何もしてくれないこと、多いでしょ?自殺にまで追い込まれるでしょ?
ましてや、日本人じゃないということでいじめを受けたら。

加えて、自分の両親や祖父母が使っていた朝鮮語を勉強してほしいなあ、昔の朝鮮の文化を学んでほしいなあとかって、ごく当然の考え方です。海外にいる日本人が、日本人学校に通うか、インターナショナルスクールに通うか、その国の地元の学校に通うか。選ぶ権利は、その人にあるんです。

国や自治体に補助金を要求することも大事なんだけれども、子供たちはどんどん大きくなっていきますよね。時間がないんだなあ。であれば僕らが、ちょびっとだけでいいから、できることをすればいいんじゃねえか。

いや、授業見学へ行くだけで、まったくもって素晴らしいです。ぜひ、行ってみてください。熊本へ行ってらーめん楽しむみたいに、気仙沼へ行ってお寿司を頬張るみたいに、異文化と接するって楽しいことなんです、本来。学術的なデータとして、海外に行ったことのない人ほど、差別的な考えを持つという発表もありますしね。

涙、1800ミリリットルです。かなりの、量です。鏡月の一升分。お伺いできて、本当によかったです。

なんとなんと、続きがあります。
ダイロクでおしゃべり 第1回」をどうぞお読み下さい…。

 


2019.11.18