1997年6月23日(月) ZAN

文・鎌田浩宮

街をふらふら散歩。
ふとした所に、御地蔵さんが在る。
それだけで何か、心がほっとするよーな時が、皆さんにもあります。
映画監督大友太郎は、バリバリのクリスチャンなのに、
何故かロケ地はいつも近所の古い神社であるのも、
そんなことからではなかろーか。

これは単なる、ノスタルジーでは、ない。

吉本隆明によると、都市とゆーのはどこも全て、
アフリカ的段階、アジア的段階、ヨーロッパ的段階と、
段階を経て変化していくらしい。
草原などの自然に囲まれた集落から(アフリカ的段階)、
田畑を耕し自然に手を加えていき(アジア的段階)、
ビルディングの中庭に公園など自然を内包する(ヨーロッパ的段階)、
といったよーに。

集落に必ずシャーマンがいて、天候や収穫を祈祷し、
その呪術で集落を守っていく段階から、
村にお地蔵さん、拝所ができあがる段階、
やがて現代的な寺や教会の宗教システムが完成されるとゆーよーに。

お地蔵さんを見てほっとしてしまうのは、
都市が都市として成熟しちまう前の乱雑さ、
そして、自然崇拝とゆー考え方への無知ゆえのほほえましさ、
また、自然に宿る魂を、前近代的なマツリによって祭らなくなり
現代に至ったことを無意識に実感しちまうからだ。

関係ないけど、神戸市須磨区の連続児童殺傷事件も、
「バモイドオキ神の創造や、小動物を殺すことによるエクスタシーに似た衝動は、自然に宿る魂を実感したいといった前近代的な欲求がねじれて表層化したんじゃねーの?」
と、映画監督西山亮は言っていた。

理屈はこの辺にしといて。
ああ、沖縄。
沖縄が大好きよ。
酒も海も人も街もいいさー。
どの家の玄関にもシーサーが鎮座し家を護り、
街のあちこちに御嶽(ウタキ)があって、今日もおばあが拝んでる。
その御嶽には、鳥居や鐘などの、タイソーなものは1つもない。
石か木の1つが、ぽつんとそこにあるだけ。
観光客は、交通事故でもあった所なのかと思うでしょー。
でも、そここそが、自然に宿る魂とつながっている場所なのだ。

しかし、沖縄という街も、既に「ヨーロッパ的段階」に突入して久しいことを
僕らは自覚しなくてはいけないのだ。

僕が泊まる宿の隣の雑貨屋のおじいが、三線を弾いている。

三線1つで歌う島唄もいいが、上原知子の「ZAN」もいいよ。
最近の沖縄の音楽では、最高さ。

プロデュースは照屋林賢。
彼の「りんけんバンド」で見せるやや土着的なバンドサウンドとは違って、
巧みなコンピュータープログラミングや、
アイリッシュなど様々な土地の音楽との融合が、
他のウチナーポップスとは正に一線を画している。
いい意味での、「ヨーロッパ的段階」さ。
すーごく、上等さあ。

クリックして試聴してみて下さいね。


2012.06.11