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キャマダの、ジデン。⑫修おじさん
鎌田浩宮・著
というわけで、小学2年の3学期に三軒茶屋に引っ越してきて、
一家再集合(なんだか「8時だョ!全員集合」みたいな言い方でしょ?)
母も父も職にありつけ、
母に至っては徒歩10分もかからないシゲタデザイン事務所で
修おじさんの下で働かせてもらえることになったのだ。
實おじさんも修おじさんも、
僕の大好きな、大切なおじさん。
でも、實おじさんは短気ですぐに手が出るタイプ、
他人の悪口も遠慮なく言う人だった(そこが寅さんみたいでいいんだけどね)が、
修おじさんは温厚で手は上げない、
悪口は言わずお得意さんとも笑顔で接する、
黙々とデザインを仕上げる姿が格好良くて
仕事の合間に得意のギターを聴かせてくれた。
でも、事務所を作るまでの道のりが大変だったことを知ったのは
僕がだいぶ大きくなってからの事だった。
おじさんは軽井沢の高校を出て上京し
世田谷は松陰神社のアパートに住みながら
デザインの専門学校へ通った。
(その頃と前後して、うちの母も上京、共同生活となるわけね)
でも、今と同じで美大卒でもないと難しいのか
当時はなかなか就職できなかったそうで
あの真面目なおじさんが、履歴書にウソを一杯書いて、
やっととあるデザイン関係の会社に就職した。
なんだお前、そんなこともできないのか、
散々怒られながらの日々。
次第に、経歴を疑われるようになる。
でも、おじさんは仕事を覚えるため
他の社員の何倍も必死になって喰らいついた。
それでも遂に会社に居づらくなってしまい、無念の退職。
そこで自力で仕事を興すことを決意。
でも、東京に知り合いや身寄りのないおじさん、
飛び込みで営業をするしかなかった。
夢や希望や理想が、
金が尽きて生活というやつに押し潰され
もう諦めるしかないのかとなる。
僕は大人になってから気づくわけだが、
それはまるで僕の人生と二重写しなのだ。
三軒茶屋には昔、茶沢通りの近くに、
長崎屋というデパートがあった。
おじさんは長崎屋の社員に喰らいついた。
何でもいいから、仕事をいただけませんか。
こんなこと、文で書くのは簡単だけど、
そうできることじゃない。
僕が東京中の事務所を回って、
音楽の仕事はありませんか、
足げにされたことを思い出す。
それじゃあ、今度バーゲンセールをやるから、垂れ幕を描けよ。
無心になっておじさんは布にペンキで字を書いた。
これが…シゲタデザインの最初の仕事となったんである!
生活するに十分な仕事が来るようになって
結婚して、
三軒茶屋のマンションを別に借りて事務所として
うちの母を雇い、
2人の子供を希望の学校に行かせて
その2人とも立派な職に就いて結婚して子供ができて。
僕が小学校高学年ぐらいの時だったか
世田谷区の商工会議所か何かのロゴマークに、
おじさんのデザインが最優秀賞となって使用された。
商店街の街中に、
新聞などの折り込みチラシや印刷物に、
おじさんのデザインしたマークを見ることができた。
僕はクラスの皆に自慢したのでした。
修おじさんは僕の誇りで、生き方のお手本だったのです…。
つづく
2011.11.01