渥美清こもろ寅さん会館にて「男はつらいよ・寅次郎サラダ記念日」35㎜フィルム上映

文・鎌田浩宮
動画撮影・竹原Tom努
写真・大島Tomo智子/鎌田浩宮

 

 

渥美さんの
20回忌なので
小諸が
舞台の
作品を
上映しました。

 

 


信濃毎日新聞2015年8月7日(金)より

一体、この記事を読んでくれた人はどれだけいて、実際に来て下さった人、どのくらいいるんだろう?

我らがココトラ代表・一井正樹は、地元のコミュニティテレビこもろにも出演。
告知に奮闘。

地元のFMとうみにも出演。
8月6日(木)夜6時からの「これからどうする?」という番組です。
DJは、いつもココトラがお世話になり、僕も「鎌田浩宮 福島・相馬に行く」上映の告知で以前出演させてもらった際お世話になった、依田こずえさん。
こず姉(ねえ)という愛称で、皆に慕われています。


 

マニュアル
だけ
の、
街。

 

今回はご覧の通り、通常の映画上映の前に、渥美清さんの20回忌を偲ぶ会を行う。
準備の多さを考えると、当日の始発で東京から小諸へ出発しても間に合わない。
僕は小諸に前泊しようと、前日8/7(金)の午後2時過ぎ、かなり早めに三軒茶屋の自宅を出た。
渋谷に着くと、山手線が不通になっている。
1つ先の原宿駅で、ホームドアが開かないらしい。

オウムのテロか、または震災以降か、電車のアナウンスはわざとぼかして詳細を説明せず、混乱やクレームを回避するようになった気がする。
いつ頃復旧するのか、振り替え輸送はあるのか、詳しい事は全くアナウンスせず、少々お待ち下さいとしか言わない。
そうなるとこちらも騙されたもので、ホームでぼーっと待っている。
恐ろしいものだ。
あっという間に、時間は池袋発の高速バスの発車時刻に近づいていた。
やっと埼京線で振り替え輸送のアナウンスがあった。
もうダッシュでそちらのホームへ行く。
埼京線は元々本数が少ない。
次の電車の到着がやたら遅い。
駄目だ。

来た道を走って戻り、地下鉄副都心線で池袋へ行く事にする。
えらい距離を走り、飛び乗る。
車内でなりふり構わず、携帯でバス会社に電話する。
「当社のバスは、いかなる理由でもお客様をお待ちしません」
1分たりとも??
「はい、1分たりともです。本来なら3時間後の次の小諸行きのバスへ無料で振り返るのですが、こちらは既に満席でして…」
怒り狂いながら電話を切った。
マニュアル社会だ。

池袋に着き、バス停留所まで数分走る。
バスは出発し、車道の1番中央車線に入ったところだった。
僕はバスの扉を叩いた。
こうでもしないと、誰も僕を守ってくれないのだ。
バス会社に今日行かなければ駄目なんだと説明しても無駄、JRに文句を言っても、新幹線代など出してくれないだろう。

バスは、奇跡的にドアを開けて僕を入れてくれた。
ああ、小諸へ今日中に行く事ができる。
拝願不足(ウガンブスク)の僕を、ご先祖様、自然の精霊の皆様、どうぞお許し下さい。
汗だくだ、水をがぶ飲みする。

運転手さんに、お礼を言って小諸の地を踏む。
マニュアルに逆らった運転手さんへ、敬礼。

小諸も日中はそこそこ暑いが、夜中になると23℃くらいまで気温は下がり、とても寝心地がよくなる。
窓を開け、扇風機も消した。

当日。
陽射しは、去年ほどひどくはない。
風も涼しいし、塩梅よく時々曇りになる。
ココトラの中心メンバー、11時に渥美清こもろ寅さん会館に集合。
と言っても、ほぼ全員がその前に集まっていた。
円陣を組んでエイエイオーをして、設営開始。

今回は、偲ぶ会を行う中庭と、映画を上映するホールの2か所を同時に設営しないといけない。
だけれど、電源コードのドラムリールだってマイクだって、いつもの数しかない。
ココトラのスタッフの数だって、分身の術で2倍にはならない。

野外の設営、水分もこまめに取り。
見事、1時までには2会場とも設営が終わった。

受付にて、芳名帳に記帳して下さる参列者の方々。
もちろん、無料で入場できます。

偲ぶ会に参列して下さった方。
毎年お越しいただける、役所の職員や、市会議員。
地元の方々。
ああ、あそこの居心地のいいスナックのママさん、美味しい蕎麦屋の女将さん、ココトラメンバーの友人、外国の人、等々。
に加えて、見慣れない方が多かった。
どうやら、観光で小諸に宿泊し、その宿でこの催しを知り、お越し下さった方もいるそうだ。
若い人も、いる。
総勢、30人ほどかな。
この暑い中、休日の中、時間を割いて下さり、ありがとうございます。

午後2時、渥美さんを偲ぶ会が始まった。
蝉が、鳴いている。

まずは、ご来賓のご挨拶。
小諸市商工観光課課長・池田剛さん。
毎年来て下さってる。

我らがココトラ・一井の挨拶です。

空の上から渥美さんが笑顔でいて下さるよう、今日もこれからも頑張ります。
渥美さん、生きていれば、今年で88歳。
84歳の山田監督と、新作を練っていただろう。

続いて、中庭にある山田洋次監督による詩碑を、鎌田浩宮が朗読しました。

 

サラダと
紅の花が
生中継。

 

今回の目玉は、最後の48作「寅次郎紅の花」のロケ地となった岡山県津山市金田稔久さんとココトラ・一井が、電話中継で対談をするというもの。

その岡山も金田さんはじめ有志のご尽力で、20回忌という節目に、渥美さんを偲びたいと立ち上がり、命日の8/4に津山ロケ20周年記念写真展と献花式を行なったそうだ。
ロケ当時、多くの市民が写真を撮ったわけで、それを再び集めて展示するというもの。
式では、亡くなった直後大船撮影所で行われた偲ぶ会で山田洋次監督が読んだ弔辞を、再び朗読したそうだ。
金田さん、とても物腰の柔らかい方で、やはり寅さんファンなんだ、と実感。
同じ岡山在住のなでしこジャパン・宮間あや選手(岡山湯郷Bell)も言っていたが、女子サッカーも渥美さんもブームではなく、文化にしたいという思いとのこと。
うんうん、その通り!
ちなみに、津山も小諸同様、鯉を食べるんですって。

その他にも、今年は柴又でも献花式があった。
全国各地で、色々と催されているのかも知れない。

僕らも、皆で献花をして、「男はつらいよ」を皆で歌った。
ハーモニカ伴奏は、ココトラ最年少の各務雄太

去年のように、暑くならなくってよかった。
去年は、暑さのせいでスマホンが固まってしまい、電話中継ができなくなりそうだった。

2時半を過ぎ、場所を中庭から、地下のホールへ移動。
待ちに待った、小諸が舞台の「寅次郎サラダ記念日」の上映だ。
ほとんどの参列者が、ホールに来て下さった。

館内では、ココトラのスタッフが今朝3時に小諸を出発し仕入れ、11時に小諸へ到着した、柴又は高木屋老舗の草だんごも売りました。

各務雄太によるハーモニカ演奏の後、上映前、小諸病院院長・高木桂三さんからのご挨拶をいただきました。

山田監督は直々に小諸病院に来て、院長に「なぜ病院で死を迎えねばならないのか?住み慣れた家で死ぬ事はかなわないのか?」など、医療が抱える様々な今日的問題を、3時間も質問しメモを取った、とのこと。
老人の孤独死が増えてしまっている現状もある、と答えたそうです。
そして驚いたのは、その後院長に許可をもらい、すぐに撮影に入ったそうです。
そこで写真を撮り、大船撮影所には本物そっくりの院長室などのセットが完成したわけです。

病院の院長なんて、偉そうにふんぞり返った人が来るのかと思いきや、物腰は低く、しかし志は高く、山田監督に深く共鳴されている方でした。
一緒に来ていた奥様も、とっても優しそうな人。
2人席に並んで、感慨深そうに映画をご覧になりました。

さて、映画館にはCMがつきもの。
僕らも、本編上映前に、こんなCMを上映しました。


映像制作・鎌田浩宮

本編が、始まった。
小諸のシーンを観て、観客からため息のようなものが漏れる。
「あそこはどこそこよ」
などとお喋りしながら、楽しんで観ている。

そして夏休みのせいか、子連れの客も多い。
子供は最初っから、ゲラゲラ笑っている。

参列していた若者も、外国の人も、引き続き観ている。

 

あの頃の、
まんまの、
街って、
この国には、
もう、
あんまり、
ないんだよ。

 

48作ある中の多くのロケ地が、景色が一変しちゃって昔の名残もない中で、小諸は昔の建物が、ボロくなりつつも残っている事に気づく。
駅前のシーンは、特にそれを感じさせてくれる。

長野新幹線が開通された時に、計画では小諸も停車駅になるはずだった。
当時の市長が、小諸の景観を壊されたくないと、その話を断ったのだ。
代わりに停車駅となった隣町の佐久平は景色が一変し、全国チェーンの飲食店や衣料品店、ホテルに溢れ、一大郊外都市に変貌した。
それをうらやむ小諸市民の一部は、当時の市長は頑固すぎたんじゃないかと悔やんだりする。

よそ者の僕は、スクリーンの中の小諸が、今も街のあちこちに残っている事、フィルムの中と現在がイコールに限りなく近い事が、嬉しくってたまらない。
寅さんのロケ地に限らず、日本という国は国土が狭いので、壊しては造り直してを繰り返し、なんとか経済をやりくりしている。
そうやって、山田監督や僕らの好きだった風景は、恐ろしい勢いで消えていく。
そんな状況に、「経済なんか優先しなくったって、心が豊かならいいじゃない?」という問いを投げかけているのが、この小諸なんだと思う。

寅さんが小諸駅前のバス停留所で知り合ったおばあちゃんの家に、泊まることになる。
ベテラン俳優・鈴木光江さんの名演技が、光る。
彼女も、2007年に88歳で亡くなった。

旦那さんのお化けが出てくるシーン、遂に入院する時に家へ向かって掌を合わせるシーン、病室のベッドで寅さんに女先生の事を話すシーン、どれを観ても、皆は笑って観ているところでも、僕はどうしても泣いてしまう。
孤独で、今でも亡き夫を愛し、家で死ぬ事を望むこの老婆を、僕は笑えないのだ。

 

看取られながら
逝けない
不幸。

 

そして、おばあちゃんが危篤になる。
寅さんは、早稲田大学の青年の車で、小諸へ飛ばす。
映画を観ている小学生くらいの男の子が、
「どうして寅さんは新幹線に乗って行かないの?」
と、お父さんに尋ねている。
お父さんは静かにしなさいというわけではなく、説明をしてあげている。
そう、この頃はまだ、新幹線がなかった。

僕は先日、子供の頃大変世話になったおばを、ガンで64歳で亡くした。
危篤と聞いて、タクシーを飛ばした。
なんとか、死に目に間に合った。
既に意識はなく、僕が着いてから間もなく、自力での呼吸ができなくなった。
延命治療も心臓マッサージもせず、ほどなくおばは逝った。
泣きながら、看取る事ができてよかったと、ご先祖様に感謝した。
意識が遠のきながらも、おばは僕の声を聞き、僕の握る手の感触を分かったかも知れないからだ。

おばあちゃんは、寅さんに再会できぬまま、逝った。
どれほどおばあちゃんは、寂しかった事だろう。
沢山いる観客の中で、僕と女先生だけが、おんおんと泣いていた。

素晴らしい映画だ。
こんなに笑いながら、とっても大きなテーマがにじみ出ている。
最近は、こんな映画、少ないのだ。

65人の観客、そしてココトラスタッフまでも熱い拍手。
映画が、終わった。
さあ、上映後のスペシャルトークショウ。

当時のロケを知っている人に語り合ってもらおう。
小諸病院院長・高木桂三さん。
当時・松竹衣装係で渥美さんの衣装などを担当、エキストラで出演もしている本間邦仁さん。
小諸市にずっと住み、当時のロケのおみこしのカットでエキストラ出演をした、ココトラメンバー・清水見守(みもる)さん。
そして、一井。
貴重な話がどんどん出てきます。
動画を、どうぞ。


「無名の頃の出川哲郎さんも、エキストラで出てるんですよね」
「御輿を担いで階段を降りるだけでも大変なのに、5回もやらされたんですよ」
「当時のスタッフも、大分あの世に逝っちゃったなあ」
「渥美さんは、撮影の合間は寡黙で、近所の家にお邪魔して1人で休んでました。人に気を遣うのが嫌だったんじゃないかなあ」
「当時から既に、体の具合がいい時と悪いと気があったんですかねえ」

ココトラスタッフが当時撮影した秘蔵ビデオを上映しながら話しました。

 

夜になり、反省会が終わり、僕らスタッフは、駅前の1日限りのビアガーデンで労をねぎらった。
地ビールを生で呑める旨さ。
吹く風は涼しく、真夏なのに秋風のように爽やか。
小諸にもこんなにいたのか、というほどの若者たちが、アイリッシュ音楽のバンドに合わせて踊っている。
「小諸に移住しちゃえばいいのに」
と、今日知り合った女性に言われる。
こんな素敵な風は、渥美さんが僕らへのご褒美に、吹かせてくれているのかも知れない。
渥美さんがいなかったら、小諸にも来ていなかった。

街を考え、死を考え、笑って泣いた、長い1日が終わっていった。


2015.08.10