キャマダの、ジデン。㊽恵子おばさん

鎌田浩宮・著

父の会社が倒産したりして
一家離散する羽目になり
僕と弟は
東京は小岩にある
母の弟夫婦に預けられた話は
以前
たっぷし書いた。

僕が、
小学1年から
2年までの
1年間だった。

そこで
實おじさんの話は
沢山書いたけれど
おじさんの妻である
恵子おばさんの事は
あまり書かなかった。

当時、
僕は7歳。
弟は5歳。
母は27歳。
父は30歳。
實おじさんは25歳。
恵子おばさんは23歳。

おじさんとおばさんの間には
広実くんという息子がいて
彼は2歳。

恵子おばさんは
その若さで
3人の子持ちに
なってしまったんである。
相当な
苦労だった。

おじさんはおばさんの事を
「あんた」
と呼んだ。

おばさんはおじさんの事を
「みのるちゃん」
と呼んだ。

本当に若い夫婦だったんだ
と思う呼び名。

おばさんは
優しかった。

おじさんは短気だったもんで
子供達へ
すぐに怒る。
それを
おばさんは
なだめてくれた。

おばさんの教育だったか
おじさんの教育だったか
今となっては
よく覚えてないのだけれど
「男は女を助けなければならない」
とよく教えられた。

なので、
まずは皿洗いを手伝った。
次に、
目玉焼きの作り方を教わった。
常に、
おばさんの助けになるように気を配った。

僕は学校でも、
女の子には親切にするようになった。

まあ、
子供のできる範囲なんて
高が知れてはいるのだが。

夏になると
おばさんの実家がある
仙台によく連れてってもらった。
おばさんおじさん広実くん僕弟
5人での大旅行だ。

おじいちゃんもおばあちゃんもおばさんの兄弟も
皆分け隔てなく
優しくしてくれた。

だから
僕は今でも
コシヒカリではなく
宮城のササニシキが
1番だと疑わない。

そんなおばさんが
1度だけ
小岩の小さなアパートで
パニックになった
ことがあった。

僕が高熱を出し
うなされて
訳の分からない言葉を
発するようになったのだ。

おばさんは混乱して
職場にいるおじさんに
電話して
助けを乞うた。

預かっている甥が
まさかな事になったら
大変だもの。

おばさん、
ごめんね。


2015.07.10