キャマダの、ジデン。㊼教授から葉書

鎌田浩宮・著

高校に入学したら、
決めていたことが
あった。

新聞配達の
アルバイトを
始めよう。

父は浮気相手の
女の所に家出していたので
高校の入学費も何もかも
母が昼も夜も働いて
工面していた。

義務教育でもないのだから
少しでも金を稼いで
家にお金を入れないと
と思ったのだ。

入学式の前からだったか
その後日からだったか
今じゃ覚えてないんだけれど
毎朝5時から6時半まで
新聞配達をしてから
学校に通った。

文化祭の日だって
配達をしてから
学校へ行ったのだ。

授業が
眠くて仕方なかった。

1時間目から
6時間目まで
全て寝ていたことも
あった。

成績は
見る間に
落ちていった。

1学期末には
クラスの中で
ワースト3に入る
始末だった。

それでも、
学内の自治に関わりたい
という夢を
かなえない訳には
いかなかった。

2年生の時に
文化祭実行委員会の
委員長になった。

新宿高校の文化祭は
ひどいものだった。
地に堕ちていた。

まず、
大黒柱であるはずの
3年生が
大学受験の準備のため
参加を免除された。
加えて、
文化祭当日は
登校しなくてもいいのだ。
無茶苦茶だった。
僕はこの風潮を嘆き
こんな所は学校じゃない、
「新宿予備校」だ
と、揶揄していた。

残った1年も2年も
出し物は
模擬店やお化け屋敷。
クリエイティビティ―はなく
1週間もあれば準備できるものだ。
文化レベルは
底辺まで落ちていた。

坂本さん達が
体を張って勝ち取った
自由と自治だったが
僕らの頃には
全共闘世代の後のシラケ世代
が蔓延していた。
何をやっても盛り上がらない、
何にも関心がない
というのは
現在の安倍政権に満足してしまっている
今の若者に通づるのかも知れない。

今の新宿高校も
自由と自治を持て余し
シラケきっているんだろうか?

僕がまずルールづけたのは
1~2年の全クラスは
映画制作か
演劇発表、
ないしは他芸術ジャンルの作品発表、
いずれかしか認めない
というもの。

なぜなら
こういったものは
制作に数か月を要する。
その間にクラス内で
コミュニケーションが深まる。
これこそが
学生生活ならではの
醍醐味であるはずだ。

これは実際に
すぐ近所にあったライバル校の
都立戸山高校では
ずっと昔から実践されていた。

戸山の文化祭のレベルは
相当なもので
そのために浪人を覚悟して
文化祭に没頭する3年生も
いるほどだった。

学生映画コンクールに
戸山の映画が選ばれ
審査委員長の大島渚さんが
賞賛したという
羨ましいエピソードまであった。

戸山のような
3年生の参加義務化は
教員に反対され実現できなかったが
1~2年生への提案は
実現された。

文化祭実行委は
これに応えるべく
コンテスト形式にして
映画部門、
演劇部門、
音楽部門、
美術部門、
各部門の最優秀賞を
全校生徒の投票で決めるという企画で
意欲を煽ることにした。

逆に、
僕ら文化祭実行委員会も
独自企画を開催するということにして
双方が労苦を共にする
というものにした。

そこで、
僕ら実行委が企てたのは
著名人をゲストに招き
「教育」をテーマに
討論会を行うというものだった。

今や世田谷区長であり
当時教育ジャーナリストだった、
新宿高校定時制中退の
保坂展人さんに会いに行き
当時マスコミに多々取り上げられている方を
パネラーとして紹介していただいた。

当時、
新たな試みを始めた学校として
脚光を浴びていた
自由の森学園の先生も
パネラーとして参加して下さることになった。

現在ライター・写真家で
当時石川さゆりさんの夫君でもあった
新宿高校全共闘出身
馬場憲治さんも
パネラーとして出席して下さることになった。

目玉は、
同じく全共闘出身にして
卒業生である
坂本龍一さんを
お呼びすることだった。

当然自宅の住所など
知る由もない。
インターネットのない時代、
必死になって調べて
坂本さんが所属するレコード会社に
便せんに何枚も書いて
封書を送った。

僕自身が小学校からの
熱狂的なYMOのファンであったこと、
つい最近も
坂本さんのソロライヴへ行き感動したこと、
中学生の頃から
学校の自由と自治に目覚め
相当の情熱を持ってこの討論会を企画し
停滞しきっている現在の新宿高校の
自治意識にくさびを打ち込みたい、
そのためには
全共闘を組んで自由自治を求めた
坂本さんのご参加が不可欠であること
等々、
筆は止まらなかった。

ある日、
僕の家のポストに
絵葉書が届いた。
目を、疑った。

坂本さんからだった。

感動した点が
いくつかあった。

まず1つは
高校にではなく
僕の家に郵送下さったこと。

これは坂本さんが
文化祭実行委という組織へ郵送したのではなく
実行委の1人の個人へ郵送した。
個人があって初めて組織が成立する
という坂本さんの意志を感じたのだ。

そして、
直筆であったこと。

当時も超多忙だった彼が
スタッフに代筆させることなく
チャーミングな猫の絵のイラストの表に
直接言葉を刻んで下さることが
当時の僕らに
どれだけ喜びを与えたことか。

加えてこの絵葉書が
坂本さんのチャーミングさと
ユーモアを感じさせ
パブリックな内容の葉書なのに
プライベートさを感じさせたのだ。

そして
「来年もあるの?」
という一筆が
社交辞令で書いたのではなく
来年以降タイミングが合えば
という坂本さんの
本気度
が伝わってきたのだ。

坂本さんは全共闘として
学校と全面対峙した。
一部の教師からすれば
未だに彼は
2度と学校に立ち寄ってほしくない
「謀反者」であり、
その一方で以前から
文化祭などの行事で
坂本さんに来てもらい
ピアノを弾いてほしいという
ミーハーな依頼は
生徒側からしていたようだ。

全共闘という事情を熟知していれば
坂本さんが安易に
ピアノを弾きに来るわけがないのは
何よりも明らかであった。

僕は違った。
教育を語りに
来てほしかったのだ。

だからこそ坂本さんも
お返事を下さったのだと思っている。

つづく・・・


2015.05.18