キャマダの、ジデン。㊱小海線

鎌田浩宮・著/写真も

轟屋いっちーと
小諸で楽しい一夜を過ごした翌朝、
早起きして出発。

小諸駅に向かって歩いていくと
登校途中の中学生が
「おはようございます」
と声をかけてくれる。
こちらも、
おはようございます
と笑顔で返します。

駅員さんも、
おはようございます
と、皆に言ってくれる。

小諸駅から出発する小海線。
母が5歳から小学5年までを過ごした
信濃川上駅へ行くには
終点の小淵沢駅まで行くやつに
乗らないといけないんだけど
本数が少ない。
8:12発を乗り過ごすと、
次は9:58、その次は12:06になっちゃう。

8:12、出発です。
車内は通学の高校生で一杯。
すごい、勉強してる子もいるよ。
あれ?
でも、僕が高校生の時は
8:20から授業が始まったよ。
部活の朝練がある子はもっと早く通学してた。

学生さんたちは
佐久長聖高校のある岩村田駅を
8:32に下車していった。
学校には、何時に着くんだろう?
それとも、テスト期間中なのかな?
それとも、他の学校かな?

主要駅を除き、どこも無人駅のようだ。
駅に着くと、車掌さんが降り、
出て行く客の切符を受け取っているみたい。

岩村田駅を過ぎると、車内はがらがらになり、
中込駅からは車掌さんがいなくなり、ワンマンになる。
降りる時、切符はどうするんだろう?
どうやら運転手さんの位置に箱があり
そこに切符を入れて降りるようだけど
運転手さんはいちいち確認はしていない。
あ、キセル、できたかな。
悪い事、考える。

プティリッツァ
って、なんだず?
長野県南佐久郡小海町の
イメージキャラクターでもあるとの事。
長野県を舞台にした、あの素晴らしいドラマ
「ゴーイングマイホーム」
と似てるです。

既に住宅街から
田畑の広がる田園地帯に入った。
線路は単線、
柵もなく、
線路のキワのキワ、
キワッキワまで田んぼなのだ。
たまに農作業してる
じいちゃん轢いちゃうんじゃねえか
と、案ずる。

そして長い時間を経て
山を登って行く。
併走している千曲川の上流と
森しか見えなくなった。

こんな所に家なんかなく
人など住んでないだろう
と思う標高1135m、
急に視界が開け
人里になる。
信濃川上駅だ。

9:45着。
1時間半もかかった。
東京なら、端から端まで行ける。
降りるのは、彼女と僕だけ。

JRの駅で、4番目に標高が高い。
駅の裏は、すぐに山だ。

ここに母の一家は住んでいた。
おじいちゃんは明治の頑固親父で
僕も子供の時分から
怒られた記憶しかない。
何をしても怒られた。

あまりにも頑固だったから
勤め先の国鉄でも
昇進できなかったんじゃないか
と母は言っていた。

今時のお年寄りは
孫に過保護だと思う。
買ってほしい物を甘えてねだり
じいじ、とか、ばあば、なんて呼んだら
ぶん殴られてただろう。

おじいちゃん、と呼び
常に敬語だった。

思い出すと笑っちゃうんだけど
上田の実家で夕飯を食べていて
僕はおじいちゃんと
ビールを呑んでいた。
少しするとおばあちゃんが
ご飯をよそってくれたので
仕方なくつまみをやめ
白飯をぱくつきながら
ビールを呑んでいた。
するとだ。
「酒を呑んでる時に米を食う奴がおるか!」
激高、怒鳴られた。

グルか?
グルでSプレイか?

おばあちゃんは、しらっとしておる。

いつもなら
「そんなに怒らなくてもいいだに!」
と助けてくれるのが
おばあちゃんだったのに。

ぶっきらぼうで
化粧もせず
田舎臭くて
でも、よくおじいちゃんから
かばってくれていた
というのが、
僕にとっての、おばあちゃん。

おじいちゃんの性格を
1番色濃く継いだのが
實おじさんだった。

何がきっかけで怒り出すか
分からない。
何をしても不機嫌。
口も怖いが手も早い。
頭がおかしいのか。

母が川上にいた頃、
母親代わりに慕っていた
長女のすみ子おばさんは
高校を出て
名古屋へ行ってしまった。

おばあちゃんにいじめられ
修おじさんや
實おじさんは
生涯それを恨み生きてきたが
母や
すみ子おばさんは
大人になるとなんでか
おばあちゃんと仲良くなるのだった。

母が川上の思い出というと
3㎞もある学校の帰り道
麦畑で取った麦をガムのように
くちゃくちゃ噛んで楽しかったとか
飼っていた川上犬のタロウが愛おしかったとか
いい思い出ばかりを
楽しそうに語るんである。

でも、
母が高校を出て
東京に上京する時は
弟の實おじさんが
不憫でならなかったと言う。
實おじさんの下の弟と妹は
おばあちゃんの実の子供。
贔屓されるのは周知の事実。

だから、
實おじさんが修学旅行だと言っては
お土産でも買いなさいとお金を送り、
實おじさんが東京に上京した後も
お昼ごはんを作ってあげたりしていた。

僕が生まれて
實おじさんと修おじさんは
よく遊びに来てくれた。

駅から線路に沿って歩くとすぐ
保線区がある。
そこでおじいちゃんは働いていた。
今はもう使われてないが
引き込み線と屋根は残っている。

「その傍に国鉄の官舎があったんだよ」
戦前から住んでいて覚えている人に
ようやく会えて、教えてもらえた。

当時は小さな木造の長屋が2軒あった。
ここに、母の一家があったんだ。

その後それは鉄筋になり
夜勤の人が泊まっていたが
保線区自体が今はなく
この建物も、無人だ。

ここにあった
6畳と4畳半の2間の家で
母たちは
おじいちゃんに耳掃除をしてもらい
おじいちゃんに散髪してもらい
少し大きな共同浴槽で、皆で風呂に入った。

駅から見える、引き込み線の倉庫。
その左に、昔母らが住んでいた、今は鉄筋の廃屋。

こんなに職場と住まいが近いんだ。
東京で1時間もかけて通勤する
サラリーマンとは何かが違う。

肉屋も魚屋もなかった。
飼っていたにわとりを絞めて
その時だけ肉が口に入ったが
それが可哀想で
それから大人になるまで
母は鶏肉を食べられなかった。

今は、ばくばく食べるけどね。

びっくりしたのは
今でもここには
肉屋も魚屋も見当たらない
のだった。
山奥だもんなあ。

小諸の呑み屋「寅さん」の女将も言ってたもん。
「ほ!そうだに。昔は魚屋なんてなかったから、行商が来るだに。でも、秋刀魚も塩漬けだったわ」

1946年生まれの母は、
東京に上京するまで
豚も牛も、食べた事がない。
餃子も寿司も
東京で初めて食べたと言う。

上田にも流れる、千曲川の上流。
そして、家が、ぽつん、ぽつん。
山が、神高い気がする。

「私の先祖も、妾の子だったり、しかも旦那が早く死んじゃったから、援助してもらえなかったりして。あと、逆の立場で、継母になった人もいた。それはそれで苦労があったようよ」
友達が話してくれた。

今も昔も、
いろんな家庭が、
あったんだ。

ちなみにこの信濃川上駅は
JR東日本のCMで
吉永小百合さんがロケをしたのだど。

ね。
これ、その時の写真とサイン。

駅舎に飾ってあります。
小百合さん、
よくこんな山奥まで来て下さったなあ。
だって、なんにもないとこなんだよ。

駅の玄関は、工事中。
でも、この看板を
写真に撮ろうとしたら
工事の人たちが
どうぞどうぞとどいてくれた。
田舎の人は、優しいなあ。

民家の軒先で
椅子に座って和んでいる
おばあちゃんがいたので
小諸の中学生を見習って
こんにちは
と声をかけたら
笑顔を、返してくれた。

さっき
官舎の跡地を教えてくれた
おばあさんが言う。
「今度来る時は、お母さん連れてきな。親孝行になるよ。でも、冬は駄目だ。寒くてな」

ありがとう。
また来るね。


2013.07.12