キャマダの、ジデン。㉟信濃川上

鎌田浩宮・著/写真も

母方の祖母がこの間亡くなって、
長野の上田まで葬儀に行ってきたって話は
何度も書いたけど、
実は、
うちの母と、血は繋がっていない。

母の実の母は、
母がわずか3歳の時に
亡くなってしまった。

食べた野菜の中に虫が入っていて
それで亡くなったのだという
今では信じられない原因で。

時は戦後間もない頃。
母を含め子供は5人もいた。
正確に言うと長男がいたんだが
おじいちゃんと喧嘩し絶縁したそうだ。

それはさておき、
子育てのためにも
後妻を迎えるのが
至極当然な時代だった。

そして間もなく再婚したのが
先日亡くなったおばあちゃんというわけだ。

そしておばあちゃんとの間に
2人の子供が産まれた。

おばあちゃんはこの2人と5人を
露骨に差別して育てた。
例えば学校の弁当、
5人の分は作らなかった。
小学生の母たちは、
自分で弁当を作って学校へ通った。

いやあ、なんなんだキャマダ家。
親の世代までハランバンジョーだったんじゃねえかい。

救いだったのは
腹違いでも、
2人と5人は仲が良かった事。

だけど、5人の中には
子供の頃の仕打ちを
忘れられない者もいて。

今はもうこの世にいない實おじさんも
おじいちゃんが1995年に
86歳で亡くなってからは
「後妻」
とおばあちゃんの事を呼び
死ぬまで1度も実家に帰らなかった。

修おじさんも、
おばあちゃんのためじゃない
2人のために出るんだと言って
重い腰を上げて今回の葬儀に来たくらい。

そんな母が主に小学校時代を過ごした
信濃川上に行ってきたど。

おじいちゃんは国鉄の保線区の職員だった。
おかげで戦争には行かずに済んだが
給料は安く
引っ越しは多く
長野県内を転々とした。

母は小諸のそばの乙女で生まれ、
5歳で小海線の信濃川上に引っ越し
小学6年でまた小諸のそばの御代田に引っ越し
中学2年で上田のそばの大屋に引っ越した。

その中でも信濃川上は山の中にあり
小諸から信濃川上へ行く電車は数時間おきしかなく、
しかも小諸からは1時間半以上もかかるので
引っ越してからは母も母の家族も、
誰も1度も行った事のない
「ふるさと」
だった。

そんな「ふるさと」へ
行ってみる事にしたのだ。

つづく・・・


2013.07.05