キャマダの、ジデン。㉖抗議文

著・鎌田浩宮

この、小学5年、6年の頃を書くのは
楽しくなくて、まいるなあ。

小学5年から6年はクラス替えもなしの3組、
担任は大木美代子先生。

前回書いた通り
僕は「かげひなたのある子」
というレッテルを貼られ、
座る席も皆と隔離され
そこは「網走収容所」と言われ、
そんな僕をクラスの皆が敬遠しだし
友達は石井君の1人だけ。

寂しい僕は休み時間に
隣のクラスへ行き
かときん達と遊んでいると
大木先生に連れ戻され
なぜ3組の皆と仲良くできないのかと恫喝され
ご親切にも
「鎌田君はなぜ友達ができないか」
という議題で学級会を開き
「皆も悪いが鎌田君も悪い」
という結論を導きだすという始末。

「よくグレなかったなあ」
と今になっては言われるけれど
僕はタフだからね。
これまでも、いろんなことがあったものね。

そんな僕は色々あって
中学受験を決意しまして、
6年生から塾にも通い始め
1日の睡眠時間は3~4時間。

毎日眠くって、朦朧として過ごしていました。

でも、6年生、世田谷区の陸上競技会にて
ハードル50m走で区の新記録を樹立し
僕の名前、体育の教科書に載ったりして。

あと、校内の写生大会では
毎年特選を受賞してたんだけど
6年生の時は学校を代表して
二子玉川のデパートに展示されたりして。

5年生の時には
区の作文コンクールで特選となり
区が発行する文集に掲載されて。

でも、この作文にも
嫌な思い出、ありまして。
仲の良かった友達が
引っ越すことを書いたんだども、
その一節に
「代わりに○○さんが引っ越せばいいのに」
と書いたんですね。

そこ、大木先生から、
書き直せと命ぜられまして。

作文というものは
素直な気持ちで書くものだと思うので
僕は絶対に書き直さないと反抗したんですが、
「これじゃあ特選を取れない」
と言うんですよ。

こっちはコンクールに出すことなんぞ知らないので
特選ってなんのこっちゃろう?
ってな具合なんだけど、
先生は、この非道徳的な一文を修正すれば
「勝てる」
という打算があったわけで。
指導担任としての、名声、ほしいわあ。

泣く泣く書き直したその作文は
僕にとっては嘘だらけの
優等生的なつまらない作文になりました。
あの作文は、フィクションです。

そうして、
卒業の時期が近づいてきて、
このたまった鬱憤を
晴らさずにはおけなくなって。

僕は、先生に抗議文を書いてから卒業しよう
と決意するんです。

最後に笑い話。
ちなみに、この頃の僕を知っている友人は
僕が将来文学か美術の方に進むと思っていたようで
僕が今音楽をやっているのを
未だに非難したります…。

つづく・・・


2013.03.06