キャマダの、ジデン。①松蔭神社

ジンセイに正解はないが、
不正解は沢山あると思う。

正しいイキカタもないが、
正しくないイキカタも、
星の数ほど。

 

1967年4月29日に、我が両親、
元(はじめ)と重昭は結婚している。
母、21歳、父、24歳。
翌1968年7月28日に僕が生まれ、
同じ年の10月3日にテレビ版の「男はつらいよ」が放送開始、
翌1969年に映画化されたとゆー、
ヒジョーに狭い意味で怒涛の年だった事が判る。

母は1946年の戦後、長野県生まれ。
ドエラい田舎で、近隣に肉屋はなかったそう。
肉がたまに口に入るのは
飼っていた鳥を絞めた時。
高等専修学校(本人は高校と言い張る)を卒業して上京。
東京で初めて餃子を見たと言う。

祖父は絵に描いたような
国鉄・保線区勤めの明治の頑固親父。
僕もよく長野に帰ると
めくらめっぽうに怒られていたもんだ。

祖母は母が幼少の頃に亡くなり、
継母には冷たく扱われたそうだ。
でも、今ではどの兄弟姉妹よりも
母と継母とは仲良くやっている。

gyoza

一方父は1943年の戦中、宮崎県生まれ。
祖父は職業軍人だったが
戦後、第一生命のお偉いさんとなり
父は裕福な家庭に育ち
当時はバカと坊主しか行かないと言われた
駒沢大学に行かせてもらえ
東京に上京。

 

母は、母の兄である修おじさんの
松蔭神社にあるアパートで共同生活をするんだが
その隣に住んでいたのが
父の大学の友人。

友人の家に転がり込んで麻雀に明け暮れる父と
母が知り合うのに時間はかからなかったのよ。

嗚呼、出逢ってはいけなかった2人。
誰も彼も止めやしなかったのか。

僕が大人になってから
父が母に宛てたラブレターを見つけた事がある。
そこに書いてあったのはなんとなんとなななんと、
「お金貸してくれないか」
だったのだぶはっ。

何故にそんなろくでなしを好きになったのか
「何せ初めて異性と交際したのが父だったし
お坊ちゃんだったから上品で、都会的だったのよ」
すぐに惚れちまった。

majang

大学4年の時には遂に4日間しか大学へ行かず
自力では就職できぬ父。
祖父が工面し、
試験会場へ行き答案用紙に名前さえ書けば
第一生命に就職できる手はずになっていた。

だが、父はその後息子である僕らに
自慢げに語りだす始末だったのだが
「紙切れ1枚で人の人生が左右されるのはおかしい」
つって名前を書かず会場を出ちまった。

どこにも就職できない父は
結局、当時母が働いていた
脇田金属株式会社へ
母の口利きでなんとか入社するんであった。

僕が生まれたのは世田谷の
三軒茶屋と下北沢の間にある
閑静な住宅街、代沢、
脇田金属のあるビルの一部屋。
街並みと同様、平和だったのは、
この一時期だけなのだった、すぺぺ…。

2011.05.10