第六十六夜:「人は完全ではないのに・・・」

diary_hitoha

先週、悲報が届きました。
地元の同級生だった男子のお父様が亡くなっていました。
それは自殺によるものでした。
彼とは保育園、小学校、中学校と一緒で、家も近所でしたから、
とうぜん彼のお父様、おじちゃんの事もよく知っておりました。
11月頭に東京に帰った際、彼が暇だったら飲もうかと
思いましたが、何故か連絡は取れませんでした。
ちょうどその頃、葬儀が行われていたのだそうです。
 
 
おじちゃんは長く病を患っていたそうです。
しかしご自身も、そして奥様も高齢の為、
おじちゃんは妻にも家族にも迷惑を掛けたくないと、
一人、森に入られたのだそうです。
私は全て、他の友人からこの話を聞かされました。
 
 
どんな想いでおじちゃんが森を歩いたのか、私には想像もできません。
一歩、一歩、踏みしめながら進んでいくおじちゃんの姿と心を想うと、
父を止められなかった彼や家族の気持ちを想うと、
私は言葉を失います。
 
 
 
 
 
 
大学時代の友人の中には、福島出身の子がいます。
今は東京と福島を行き来しながら生活しているそうです。
あの震災後、その子の親戚の子が、酷い鬱病を発症して
自殺をしてしまったと夏の初め頃に聞かされました。
あの震災の陰には、多くの自殺者がいました。
誰にも迷惑を掛けまいとして自殺を選んだ高齢の女性もいました。
しかし震災報道の熱は半年を区切りにして、激減しました。
扱うネタも狭まりました。
年末になればまた報道はなされるのでしょうが、
もう回顧的な報道をするのでしょうね。
20000人以上の犠牲者と、その後自身で死を選んだ者、
これらに正常な報道の光が差す事はないのでしょう。
人は「死」を遠くに追いやりたいのです。
 
 
私には、警察官をやっている友人がいます。
あまり詳しくは書けませんが、彼は鑑識という仕事で、
毎日のように自殺者を扱っていると言っていました。
表現の一つではなく、本当に「ほぼ毎日」なのです。
悲しい現場、凄まじい現場の話をしてくれる本当に貴重な友人です。
誠実に仕事をしている彼だからこそ、仕事柄から
多くの苦悩と苦痛を抱えています。本当に私達では
体験し得ない「死」の事柄を毎日のように見ているのでしょうね。
だから私は、いつも彼の身と心を案じています。
実は彼もまた、お父様を亡くした彼と同級生なのです。
だからこの話を連絡する事は少しためらいがありました。
以前、彼の話の中で、気になった言葉がありました。
 
 
「死にたくて、苦しくて、みんな自殺しているんだけどさ、
 どの現場や死体も“死にたくない”って言ってんだよ…」
 
 
自殺者とは、もはや思考力が無くなり、突発的に自殺を行うものだと
最近では言われています。ドラマの「死ぬ勇気があればやり直せる!」
などは虚構です。自殺者に勇気は関係ないのです。
しかし、それでも警官の彼の、実際に体験して得た言葉は、
私が想っていた「自殺」の事柄を壊すものでした。
 
 
死にたくない・・・
 
 
私もまた自殺を考えた事が一度も無いわけではありません。
亭主が死んだ時も、その事で義母と争った時も、脱せないほどの
経営難に陥った時も、息子と心中しようと何度も何度も考えました。
しかし、そうはしなかった。
理由などわかりません。
陽の光の傾きが、空気の湿度が、匂いや風から、
もしかしたら通り過ぎた人の声や言葉から、
正気を取り戻させただけかもしれませんが。
今生きている事も、あの日死を選んでいたとしても、
それらすら、すべて偶然かもしれません。
 
 
私達は普段「死」を遠いものだと想っています。想おうとしています。
震災被害者の数を聞いても、知人の死を知っても、
身内の死を経験しても、それでも尚、私達は「死」に鈍感です。
生きる為にもっと「死」を知る必要があると私は思います。
 
 
 
 
 
 
おじちゃんは、完璧でいたかった。完全でいたかった。
そう思います。
でも、人は完全ではないのですよ。
身体が元気な時だって、周囲に迷惑をかけて、
やっと人一人が生きていけるものなのですよ。
足りないから「人」なんですよ、おじちゃん。
迷惑なんか掛けちゃってよかったんですよ、おじちゃん。
生きてよかったんですよ、おじちゃん。
おじちゃん。 
 
 
 
 
みんな、話してほしい。心の中のなにもかもを。
話してもムダ、なんてないんだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2011.12.14