キャマダの、ジデン。④東銀座

母は下戸なのに飲まないといけない仕事だから
あちこちにぶつけながら車を運転して帰宅していた。

時折、帰宅してから夫婦喧嘩があった。
真夜中の1時、とかだと思う。
父が、殴る。
母が泣きながら実家に電話しようとすると
させまいと父が、殴る。
余計に泣き叫ぶ母。
「僕の前でならいいから。弟の前でだけは喧嘩しないで。」
と懇願する僕。

翌日、泣きすぎて腫れた顔で
「こんな顔じゃお客さんに見せられない」
と言いながら、また仕方なくスナックへ行く。

母は疲れ切っちまうのか、
日曜は10時くらいまで寝ていた。
何故か父も10時くらいまで寝ていた。
日曜だからどこかへ出かけようよ
と2人に言っても無駄である。
弟と遊びに行った。

jiko

大人になって、
僕と弟に違いがあることに気付いた。
弟は、父に全くわだかまりがない、仲もよい。
どうしてなんだろう?
僕が父に対して、心が狭すぎるのか?
原因が判るまで、随分悩んだ。

弟はこの頃、まだ2~3歳。
当時の恐怖や不安や暴力の記憶がないのだ。
弟の前では喧嘩をさせないようにした、
そのことも大きかったようだ。
それが判った時は、えらくほっとしたよ…。
僕は異常じゃなかったんだ。

さてさて、そんなさなかだったけど、
この頃母には楽しみができた。
僕(5歳)と弟(3歳)を、芸能プロダクションに入れたんである。

元々田舎にいた時に
親に内緒で「天地真理のそっくりコンテスト」
なんぞに応募していたくらいで
かつては自分が芸能界に憧れてたのを、
子供に夢を託したわけだ。

実入りは少なかったが
そこそこ仕事は来たんだなあこれが。

kabuki

2人に歌舞伎座の子役が回ってきたこともあった。
そうすると公演は一か月。
僕にはたった1シーンだけの出演だが
木下藤吉郎の役が付いた。
小っちゃい時から、猿顔だったもんなあ。

先代の勘三郎が、僕に訊く。
「お前、名は何と申す?」
僕は声が小さくって、威勢よく猿のように
「木下藤吉郎だ!」
と叫べない。
そうすると、客席にきちんと聞こえるよう
先代は何度でも、訊く。
「何?もう1度申せ」
「木下藤吉郎だ」
「聞こえんぞ」
「木下藤吉郎だ!」
「そうか!」

5歳の僕に、本番中でも厳しかった。
歌舞伎の世界は厳しいなあと感じた。
世襲で子供の頃から厳しい稽古をつけられる
歌舞伎の家に生まれた子は大変だと感じた。

child monkey

女の子のように可愛い弟は売れっ子で、
女形を演じて先代の中村勘三郎と出ずっぱり。
ご褒美に先代から弟は、
毎日1台ミニカーをもらっていた。
1カ月公演だから、最後の日には30台になるわけよ。
弟は、3歳。
遠縁の孫のように可愛がられてたんじゃないかなあ。

現在の勘三郎は、この頃まだ、勘九郎。
主役を張るのは常に、先代の方だった。
そして、こんなにも若く、現在の勘三郎はお亡くなりになった。
心よりご冥福をお祈り致します。

ただ、子供としては、
役者の魅力に目覚めたわけでもなく、
家に帰って近所の子供たちと遊んでいたかった。
全く楽しくなかった。

今、演技の上手い子役、多くなったけど
楽しそうに演じてるよなあ。
僕らの頃と違って、
学校で友達と遊ぶよりも
楽しい居場所へと変化したのかしら?

koyaku

でも、2人は母に従順だった。
逆らうなんて思ったことはなかった。

幼児っていうのはそういうものだと思う。
よく無抵抗で親に虐待され
殺されちまう事件があるが、
そう、幼児の思考に「抵抗」という概念が生まれるのは
かなり年齢がいってからではなかろうか。

小学校1年の2学期が終わる頃だった。
クリスマスにお正月、楽しくてたまらない時期に
母に言われた。
「お前達兄弟を、實おじさんの家に預けたい」
パパは?ママは?
「パパもママも、ついては来ないのよ」
今度泣きやまないのは、僕らだった。


2011.06.14