キャマダの、ジデン。②代沢

脇田金属のあるビル、ハイツ池の上の1部屋。

遂に陣痛が、始まった。
母は、初産である。
不安と、激痛。
しかし、父はいなかった。
どこに連絡しても、いない。

苦しいおなかを抱えながら、
隣の部屋に住んでいる
けんごちゃんのお母さんに頼みすがって、
何とか病院へ。
1968年7月28日、僕が、生まれました。

この日麻雀に没頭中だった父は、
僕が生まれたことも露知らず。

それでも、
ちぎれちぎれの記憶を貼り合せると、
父には可愛がってもらった記憶しかない。
父がへとへとになるまで
じゃれあっていた記憶。
この頃くらいかしら、
父に可愛がってもらったのは。

heights ikenoue

四畳半一間の部屋に、
松陰神社からは修おじさんが来てくれて、
ウルトラマンとかの絵を沢山書いてくれた。
そう!
後に修おじさんは、
一念発起してデザイナーになるんであった。
そして昼も夜も働く母を
写植オペレーターとして
雇ってくれるんであった。

後に僕と弟を預かる事になる實おじさんも
小岩から遊びに来てくれた。
何しろ高校を出て上京したばかりの、
可愛い母の弟だ。
實おじさんが修学旅行の時は
母が仕送りをして、
實おじさんに小遣いをあげていた。
「これでお土産を買うのよ」
それだけ継母からは、
冷たくされていたのだろう。

修おじさんも實おじさんも
まだ独身で子供がいなかったので
そりゃあ可愛がってくれた。

長野から、あの怖い怖いおじいちゃんも、
狭い部屋に来てくれて
赤ちゃんの僕をお風呂で洗ってくれた。

tamagawaen

 そして2年後には僕の弟が生まれ、
休日には多摩川まで家族4人でピクニックに行った。
平日にはビルの下まで降りていき
父の働いているりりしい姿を覗きに行った。

母は、長い人生の中で
唯一無職で、専業主婦でいられた時期だった。

僕がそろそろ幼稚園に入学かという頃、
まだ三十路前の父は、
脇田金属を独立して
新しい金属会社を興すと言い出した。
さあ大変だ!
僕が4歳の時をもって、
平和な時代は早々に
幕を下ろしちゃうんであった…。

hutakotokyu

2011.05.17