私の2016年映画ベストテン 名無シー編 洋画部門

 

 

新春後ろ向き企画 去年の映画よ、こんにちは

グレゴリウス暦2017年、丁酉年
新年明けましておめでとうございます

匿名希望の 名無シー と申します

キャマダ非社長に頼まれ
昨2016年公開映画の
映画評を書かせて頂く事になりました

 

 

ちょっとその経緯について書きましょう。
事の発端は、昨年2016年の年の瀬、クリスマスイブに、本サイトのキャマダ非社長とその哲学科時代の同級生ワオ君から、忘年会をやろうと誘われていた事でした。私は、ああだこうだと言い訳をして、当日、忘年会をすっぽかして、意中の女の子と聖夜の序章として、映画を観に行ったところ、よりにもよって、その映画館で、バッタリ、酒よりは思索に酔いたい哲学科的忘年会の真っ只中の二人に遭遇してしまったのでした。

思索にふけりたい二人が選んだ映画と、意識高い系の女の子を撃墜とそうとした私のチョイス、それが奇しくも一致してしまったのです。哲学とはその様なものです。習慣化した行動、惰性なのです。目的地は違えど、どうしてもそこを通ってしまう道。全ての道は映画館に通ず。

私は冷や汗を流し、ああだこうだとまた非常に長い言い訳に終始し、女の子の手前その日は事無きを得たのですが、怒りと言うものは寝かせて置けば酒のごとく強いものに醸されて行くというのが理、後日改めて設けられた第二次哲学科的忘年会の席で、思索よりは怒りと悪い酒に酔って理性が混濁した二人から、「我々との語らいより映画(あるいは女の子)が好きだと言うなら、この場でも映画を語れ!愛を語れ!」と、何時間も映画及び愛の素晴らしさについて休み無く語る拷問を受けると言う仕儀に立ち至ったのでした。

しかし、普段からギフハブ等の恐ろしい組織について調べ、ものすごい今、日本では、200メートル四方まではズームで追える、今まさにズームされている感じがする!などと精神的拷問を受けるに等しい意識状態で日々生きているニートの私は、二人からの責め苦は、日々の鍛錬の試金石、クリスマスにうつつを抜かした私に神仏が与え給うた試練(あれ、何もかも御承知の神仏とギフハブって似てね?)と、何時間も心を無にして昨年観た映画についてツイッターで仕込んだ浅知恵を縒り集め、口寄せの如く延々これを語り続ける事が出来、恐ろしい拷問空間をくぐり抜ける事に成功したのでした。

しかし、家についてほっと一息、ココナツサブレをミルクティーに浸す至福の一時も束の間、キャマダ非社長から怪しいメールが届くのでした。
曰く、先の口寄せを文章に起こし、偉大なるエプスタに寄稿するように、原稿料は本日の我々が与えた慈悲が前払いと心得よと。筆耕戦闘に邁進し寄稿しなければ、非社長の無慈悲な鉄槌がくだされようと。目をこすって二度見したのですが、そこには紛う事無く、ただ働きを強いる言葉が連ねられていたのです。

以下にしたためます映画ランキングにも、シベリア抑留に纏わるドキュメンタリー映画がランクインしていますが、苛烈な環境下(私の住むボロアパートは、冬場、室温が10℃以下)、見えないゴールを目指しての強制労働と言うものは、人間の尊厳を脅かす程、辛く耐え難いものです。でもここで折れたらギフハブにも勝てない!そう思って、以下頑張って苛斂誅求(カレンチュウキュウ)に応え筆耕戦闘したのでした。

総鑑賞本数百五六十本位と、映画好きにしては幕下レベルですが、お付き合い下さいませ。
長いので気の向いたのをチョイスして読む位が丁度いいと思います。
(※下請け編集室 編集担当N註.名無シー氏には妄想癖があり、度々尿検査を勧めているのですが、お茶を提出するなどし──その癖健康のため飲尿しているという噂も…… ──、事態の改善が見られません。毛髪検査も嫌がって、幻想でしかない大金を後ろ盾にヨーロッパへ行くなどと言い出したりして手に負えないものがあります。氏の言う非社長からの無慈悲なメールも実在が確認されておらず、原稿は氏が自ら好きで勝手にたくさん書いてはエプスタに送り付けて来ているもののようです。よってキャマダ非社長が拷問等悪事に手を染めている事実は勿論ありません。)

 

 

映画好きニート名無シーが送る!
個人的2016年映画ベスト10

【洋画編】(括弧内は鑑賞回数)

 

①ジュリエッタ

ペドロ・アルモドバルの最新作。
え!こんな公共の場でいきなり!? と言う日本人の感覚から乖離(カイリ)した物語全ての発端とか、例によってアルモドバル流の荒唐無稽さが炸裂!
一方で、苦しめる者達が最後に見せる弱さが、優しさや希望になる、柔らかな救いの予感、 突然の救いの光の中の戸惑いが、まるで聞こえていなかった風の音にでも耳をそばだてるかのように丁寧に描かれる。
アルモドバル は、「抱擁のかけら」の中で、目の見えない主人公が、かつてオネエで今はゴリゴリのハードゲイである登場人物ライXの神の視点を代理する画策によって、プラトン的な洞窟の影を通して愛のイデアに触れる感動の瞬間を撮った。今回の「ジュリエッタ」の救いも、どこか人間を包む世界の背後からの愛を描いているように見える。それがぱっと見分からない位絶妙で静か。まるで冬の陽だまりのように優しい。
タイポグラフィ、赤いドレスのひだのゆらめき、Miquel Navarro の彫刻、雪の中走る牡鹿、怖すぎるロッシ・デ・パルマ、マドリッドの部屋…… 何もかもが素晴らしい映画。

 

①映画よ、さようなら(3)

ウルグアイのフェデリコ・ベイロー監督作。
主演はウルグアイ映画批評家協会元副会長、舞台となるシネマテークの館長役は実在するウルグアイのシネマテークの館長。監督もかつてシネマテークで働いていたという。
映写室で無声映画を架ける初老の館長。なぜか片手にマイクを持っている…… と、思ったら、いきなり詩を読み上げ始め、その渋い声が館内に響き渡っているではないか!
日本の弁士(山崎バニラみたいな人)とも大分雰囲気はちがう。あのシーンは圧巻!
他にも、主人公が、館内放送用にシネマテーク(名画座)のよさ、名画の素晴らしさを自分でテープレコーダーに吹き込むシーン(「自分で録音して聞いているとです」ヒロシか!)や、シネマテークのロビー壁に掲げられたエドワード・マイブリッジ(映画の祖の一人)の馬の連続写真とその前を歩く主人公の影と光、あるいは、バスのシーンの荒いコントラストとしっかり追いかけられた車の振動、床屋のシーンの顔や髪のアップのシャープなディテール、カメラの上下反転の感動、講義のシーンの諧謔、白黒時代らしい、レディメイドな感じのしない音楽など感嘆のオンパレード!
正直この映画のよさを挙げ始めるとそのよさは正に映画的質料(ヒュレー)的で、言葉では全く伝わらない(自覚して書いてます)し、枚挙に暇がない。とにかくどのシーンも素晴らしいので、百聞は一見にしかず、機会があったら是非見てください。
個人的には、映画の良さ名画座の良さをを知った人達が、その良さを全て持ち寄った様なこの映画を、年の瀬に池袋 新文芸坐で見ることができたのは幸だった。
あの静かに湧き上がる感激を、新文芸坐のスタッフ、観客達と共有できた歓びは格別なのでした。

 

①世紀の光(2)

タイの鬼才アピチャッポン・ウィーラセタクンの代表的傑作。緩い脱臼寸前のユーモアや、巧みな構成で作られた意識の通路が、観客を物語の外に誘ったり、また中へ招き入れたりする。
そしてタイ東北地方の森や水田の美しさ。
余談ですがこの映画に出演した多くの役者さん達が、撮影の中で互いに恋に堕ちたそうで、縁結びにはとても縁起の良さそうな映画です。
実際可愛い女性や汚いおっさん達が多数観に来ていました。

 

①ロブスター(18)

ギリシアの奇才ヨルゴス・ランティモスの傑作。
画の撮り方、音楽の使い方は、80年代90年代のゴダールへのオマージュにみえる。強めの陰影、抑えつつもしっかりした発色(彼の場合は青系寄り)、フレーミングとその中での動き・静止、身体性、何もかもとにかく美しい。
一方でゴダールのような政治的テーマは一切無し。
寓話の様な話かと思いきや、物語は特異な状況を実現するための荒唐無稽状況生成マシーンとして機能していて、カメラが向き合い得る、可能な面白状況を次々タイムラインに投げ込んでくる。
主人公達が人目を欺くために考案したジェスチャーが、視力を失ってからは言葉として二人だけの暗号にかわる。
ブラックスクリーンのエンドロールの途中で歌が途切れ、聞こえてくる潮騒が、視力を失った二人が嘗て目が見えていた頃、密会場所の岸辺で聞いていた潮騒の今の形だと分かる瞬間。
笑ったり、はっと気付いて感動したり、画の美しさに魅せられたりの連続で、本当に素晴らしい映画。

 

①チリの闘い

チリのパトリシオ・グスマン監督の記録映画。
三部からなる大作だけれど、我々が生きる時代を知る上で必見の映像。
1970年、民衆によって選ばれたチリのアジェンデ政権は、先住民への土地の返還政策などに象徴されるように、大航海時代以降の殺戮と収奪の歴史に反省を加える施策をとった。
この政権はそれ故、暴虐と収奪で成り立っているポストコ口二アリズムと言う名のコ口二アリズム=パックスアメリ力ーナに対する脅威と捉えられ、СⅠAやスクーノレオブアメリ力ズが推す匕゚ノチェ卜によって、詰まりアメリ力によって、武力で潰されてしまう。
その一部始終を収めたこの映像が奇蹟的に無事チリの国外に運び出され、半世紀近い時を経て地球の裏で公開されたことは本当に意味深い。
この現代社会の仕組みを知りたい方には、事始めに、その力学の黎明期を記録したバルトロメ・デ・ラスカサス『インディアスの破壊に関する簡潔な報告書』(岩波文庫)がお薦めです。この中に書かれている事は、実は今でもブラジルの奥地等で原住民狩りの形で行われていて(同国の先住民保護機関FUNAIが報告書を作っているとのこと)、大国の穀物・果物主要企業を支えている訳です。
我々に出来ることは極小さな事かも知れないけれど、歴史を知って、惨いことに与(クミ)しないように少し心掛けてみることは、世の中を良い方に漸進させる助けになるかも知れません。

 

⑥彷徨える河

上記の南米先住民の置かれた状況を、先住民に近い視点で描こうとしたコロンビアのシーロ・ゲーラ監督による映画。
もう十年位も前、沢木耕太郎氏が案内人を務めたNHKスペシャルで、村が丸々穀物・果物産業従事者による殺戮に遭い、二人の子供の兄弟だけが生き延びた話が紹介されました。
二人は、たまたま森に出掛けていて、村が焼かれ、家族が殺され、重機が村を更地する光景を木々の間に隠れて目撃し、それから大人になるまではずっと二人だけで森に潜んで暮らしていたというのです。
それが沢木耕太郎氏が訪れたアマゾン奥地の村にひょっこり現れずっと何かに怯えるようにしていましたが、また暫くすると森へ去っていったのでした。
こうしたことは、大企業の息のかかった原住民ハン夕ーが横行するアマゾンでは珍しくないことのようで、このコロンビア映画もそう言う近世ラスカサス的現代史を描いています。
主人公達が乗った舟が、宣教師のコロニーを脱出し、フレームアウトして行くシーンなど、忘れがたい映像美も心を捉える素晴らしい映画。

 

⑥アメリカン・スリープオーバー

⑥イット・フォローズ

今、飛ぶ鳥を落とす勢いの新鋭監督デイヴィッド・ロバート・ミッチェルの作品。独特の深い陰影をもったなだらかな肌理がとても味わい深い。特に前者の映画は登場人物の行き過ぎないささやかなオフビート感もあって中々いい。
因みに監督は選挙の時はサン夕゙ース応援してました。優しい人なんでしょう。そう言う人だからじわりと出て来る味わいもあるのかな。

 

⑥エブリバディ・ウォンツ・サム!!

リチャード・リンクレイター最新作。
映画好きの人には説明不要ですね。
あの感じにフォーカシング出来る能力はやっぱりリチャード・リンクレイター!

 

⑩シアター・プノンペン

カンボジアのソト・クォーリーカー 監督作。
実は、封切り時はスルーしており、新文芸坐で同時上映の「映画よ、さようなら」を観るのが目的で、おまけのつもりで観たのだけど、思いっきり傑作だった。
実際に起きた悲劇的歴史を扱ったフィクションは、それで実際の鎮魂、或いは遺族の魂の救済になるのだろうかと言う点が気になることが、ままある。
「シン・ゴジラ」のような娯楽ものでさえ、東北地方太平洋沖地震とフクイチを下敷きにしている節があり(閣僚や官僚のやり取りは、再現ドラマ映画『太陽の蓋』同様に描かれる)、全く違和感無しに観られたのか?と自分に問うて見ると、感覚麻痺のような何かに浸食されていたのを否定出来ない。
このカンボジア映画についても、そう言う違和感にぶち当たるのではないかと思いながら見ていた。 最後まで見たとき、監督が、そう言う感覚とも真剣に向き合って、フィクションの中のドキュメンタリーと言う装置を使いながら、観客と共に過去への誠実な視界を得ようとしたのが見えて、ゴジラでは誤魔化していた気持ちに目をむけつつ、納得することが出来た。
ポル・ポト時代に起因する実際の苦しみは、もっと悲惨で、この映画では、鎮魂も遺族の慰撫も遠いものだとしても、これはこれでいいと思えた。


2017.01.09