エプスタ編集長による『ジャンゴ 繋がれざる者』

写真/文・鎌田浩宮

誰か
僕を
保護
して
くれ!

僕ん家の近所の小川、といっても人工に造られたものなんだけど、そこには元々本物の小川が流れてた。
それがだいぶ昔に暗渠になって、ただの味気ない遊歩道だった所を、数年前に人工の小川にしたという。
地下にも地上にも、長い距離の川、流れていて。

人工といっても鴨はいるし鯉も住んでるし、あったかくなればあめんぼやおたまじゃくしも出てくるし、のどかな気分になれる場所なんです。
どのくらいのどかにそこで僕が歩いているかといえば、そこで遊びながら歩いてる幼児並みの速度。
その2歳くらいの子には保護者のお母さんが寄り添っていて。

…ああ、僕は、声やいろんなものを大にして言いたい。
「誰か僕を保護してくれ!」
誰か素敵な女性が現れて、カネなんかいらない、僕に寄り添い歩くだけでいいのさ、ああ確かに今は失職中だ、でも僕は尽くします!尽くさせます!
って尽くさせちゃ駄目だろこのやろ。

 

舞台挨拶
を、
ボイコット
せよ。

 

楽しみでたまらなかったタランティーノの新作
「ジャンゴ 繋がれざる者」
を、3/1(金)の公開初日にして、1000円で観られる映画の日にダッシュで行ってきた。
もちろん、東京で1番スクリーンのデカい、有楽町マリオンの映画館だ。

今日のチケットはまだあるのに、明日の土曜は舞台挨拶があり、チケットは既に売り切れ!
なんと、レオナルド・ディカプリオも来るそうで、映画館内も華やいでいる。

それにしても、いつから舞台挨拶のある上映は割増料金を取るようになったんだろう?
2000円だって。
普段は1800円ぞ。
ちょっと前までは、こんな理不尽、なかったど。
舞台挨拶というのは、あくまで
「初日にこんなに沢山来て下さってありがとう」
という感謝を示すものであり、逆に言えば、初日に沢山の人に来場してもらい景気づけをするものだよ。

このおかしな風潮、全然納得いかない。

 

映画の
中で、
ヒトラーを
なぶり殺した
男の、
マカロニ・ウェスタン。

 

死刑制度に反対だという人が多くいる。
理由を聞いて、もっともだと思う。
でも、僕の家族や親友、愛する人が殺されて、殺した者が罪の意識も反省もなくあざけり笑いながら生きていたら、僕はそれを赦す自信がない。
殺してやりたいと思うかも知れない。
しかも自分の手で、最も苦しむ方法で復讐したいと思うかも知れない。

最も愛すべき映画オタク、タランティーノの近年の作品は
「歴史3部作」
と言われ、前作
「イングロリアス・バスターズ」
ではナチスを、そして今回の
「ジャンゴ」
では黒人奴隷を迫害した白人を
残忍に殺して殺して殺しまくって復讐を遂げるという映画だ。

「イングロリアス・バスターズ」
では考えさせられた。
アメリカがイラクに戦争を仕掛けフセインを殺し、イラクは自由を獲得し、治安悪化と国の混乱を招き、市民はアメリカを憎んだ。
報復は報復しか生まない。
そんな思いの強い時代にこの映画を観たので、国家への報復というテーマに疑問がないわけではなかった。

 

愚かな
スパイク。
自由に
遊ぶ
クエンティン。

 

もちろん、現実の歴史では、ユダヤ人がナチスに、黒人奴隷が白人に復讐を遂げた事実はない。
映画という素敵なおもちゃで遊びまくってきたタランティーノは、この3部作で
「歴史を書き換える」
という壮大な遊びに挑戦しているのだ。

映画のパンフレットで、タランティーノはこう語っている。
「全世界でヒットしたTVシリーズ『ルーツ』が駄目なのは、主人公のチキン・ジョージが今まで奴隷を散々虐待した白人に復讐できるチャンスを掴んでも、寛大に許してしまうからだ」

「イングロリアス・バスターズ」
ではあまり起こらなかった批判も、今回の
「ジャンゴ」
では批判もあるようだ。
白人が黒人差別の問題を描くという事自体が、気に入らない人もいるだろう。
だからタランティーノの壮大な遊びも、この3部作では慎重に歴史を調べ慎重に脚本を練り上げている。

だけど、あのスパイク・リーも、
「俺たちの祖先に対して冒涜的。奴隷制は娯楽にしていいものではない」
と、この映画を観ないよう訴えたという。

スパイク・リー。
「ドゥ・ザ・ライト・シング」
は今でも10本の指に入るほど好きな作品だが、
「マルコムX」
から、駄目な映画しか創れなくなってしまった。
彼は、マルコムXという1人の人間を描き切ることなく、正しい歴史の教科書を作る事に専念してしまった。
それ以降も彼は黒人を主人公に映画を撮り続けるが、全ては黒人の歴史教科書作りで終わっている。
彼は人間の中身を描くという映画監督を辞め、学校の教科書の執筆者になった方がいい。

僕の大好きな音楽家・細野晴臣さんが、YMO散開直後の1980年代に組んだユニット、フレンズ・オブ・アースにつけられた
「想像だけなら逮捕されない」
というキャッチコピーが好きだった。
タランティーノはこのコピーを知らないだろうけど、想像力を駆使し、歴史を改ざんする。
頭の中でなら、どんなに破廉恥だろうと非道徳的だろうと、滅茶苦茶な事を考えても構わないのだ。
どれだけ頭の中が自由で、何者にも縛られていないか。

もちろん、そうやってできた頭の中の空想の産物を映画にするには、制約が発生してくるのだが。
特に今回のテーマは、ナーヴァスだ。

 

報復

報復
しか
生まない
のか。

 

最後に主人公ジャンゴは、自分らを死に至るまで苦しめ続けた白人を殺しまくるんだけれど、その殺し方は、マカロニウエスタンのように、あるいはタランティーノの代表作「キル・ビル」のように、秘密の必殺技や華麗な銃さばきがあったりするわけではない。
ひたすら銃を撃ち、血しぶきが飛び肉片が弾け飛ぶだけ。
その残虐さゆえR-15指定にさえなっているんだが、このように、ある部分ではタランティーノは遊ぶことをやめ、ひたすらリアリズムで死を描く。
そうすることによって、復讐、報復というものの核にあるものを描こうとする。

復讐を終えたジャンゴの笑顔は、決して美しくはない。
まるで悪魔のように目をつり上げて笑うその顔は、憎悪に満ち、狂気に近い。
まるで顔の下からライトを当て、狂気を煽っているかのようだ。
この「笑顔」は、前作
「イングロリアス・バスターズ」
でも観られたものだ。

この映画オタクは、遊び半分で暴力を描いてはいない。
復讐と報復の本質を描こうとしているんじゃないか。

そして、想像だけなら、いくらでも黒人は白人に報復していいのだ。
報復は報復しか生まないのかも知れないが、想像だけなら、報復は快楽を生むか。

この映画の冒頭、タイトルバックと同時に、あのマカロニウエスタンの代表作
「続・荒野の用心棒」
の主題歌「ジャンゴ」が大音量で流れ、映像と音楽の組み合わせによる、1+1が3以上になる如くの映画的な快楽で、頭ん中にアドレナリンが放出される。
そして劇中には、1970年代のブラックパワー、公民権運動の象徴的なミュージシャン、ジェームス・ブラウンが流れ、映画的な興奮は加速する。
しかし、映画が終わりスタッフロールになると現代黒人文化の象徴であるラップが流れ始めると、映画的な歓びは収縮していく。

想像だけなら逮捕されない映画による壮大な遊びを完遂する時に、彼は何かに慎重になりすぎてはいないか?
そこまで黒人観客に寄った選曲などをすると、これは映画ではなく、制約のある教科書になっていくのだ。
タランティーノは普段、ブラックスプロイテーションには流れるはずのないラップなどは、聴いてはいないだろうから。

そして逆説的に、スパイク・リーの傑作
「ドゥ・ザ・ライト・シング」
に流れる、パブリック・エナミーによるラップ
「ファイト・ザ・パワー」
には、血沸き肉躍る映画的快楽があるのだ。

いい映画を観た。
「パルプ・フィクション」や
「キル・ビル」で、おもちゃ箱をひっくり返したような映画ならではの快楽の彼岸に渡り、歴史というフィルムを切り刻んで改ざんし、映画で復讐する。

しかし今、僕には復讐したいヤツはいない。
いや、正確にはいるのだが、復讐する労力に値するほどのヤツでもない。
小川にたたずむカルガモが、あまりに可愛いのだ。

ああ、誰か僕を保護してくれ。


2013.04.17