映画「深夜食堂」

文・鎌田浩宮

昭和館

観たかった。

 

ゴールデン街からそれほど遠くない、新宿のシネコンで観た。
ふっかふかの椅子に座りながら、嗚呼、ここが昭和館だったら、どんなに幸せだろう、せめて、歌舞伎町コマ劇前の映画街で、なんなら新宿ミラノ座で観られなかったものだろうかと、時の流れを恨んだ。

何と言っても、第1シーズンの時は低視聴率で、ごく一部のみに惜しまれて終わったこのドラマが、銀幕で観られるのだ。
新宿だけでいい、シネコンでの上映はないんじゃねえか。
好きな時間にぶらっと行って入れない、座席指定がどうのこうの、ネット予約がどうのこうの、上映前には映画泥棒がどうのこうの、そんなもんは全て、いらねえんだよ。

今の映画は、フィルムでもヴィデオでもなく、ハードディスクで撮影され、映写機というよりかは、プロジェクターで上映される。
ただ、そのコンバートが上手くいっていないのか、映画によっては画質が粗かったり、色合いがひどかったりする。
その点、この映画はしっかりしていてほっとした。
あの幻の呑み屋街が、上質なフィルムの質感そのままの画質で、銀幕に映えていた。
少しでもテレビのヴィデオのような質感があったり、品のないフィルターで色を調整していたら、がっかりしていたところだった。

今回映画化された事で、ファンもスタッフも、共に思った事があると思う。
1つは、あの下らないタイアップで流れる、エンディングのJ-POPを聴かなくって済むという事。
もう1つは、これまでのテレビ版でも感じられたけれども、30分で収まりきれないエピソードを、存分に長尺で描けるという事。

でも、蓋を開けたら、3つのオムニバスだった。
そのオムニバスがらせん状に絡み合っていればいいのだけど、それぞれが分離している。
3つを通しての繋がりは、骨壺しかない。
これは、残念だった。

 

無条件

赦し
受け入れる
こと。

 

それでも、30分の枠を超えて描いた「とろろご飯」はよかった。
だが、テレビシリーズの「猫まんま」「タマゴサンド」に匹敵するほどの傑作かとなると、そこは微妙になってしまう。
「ナポリタン」なんぞは、どうしてこの映画に組み込んだのか、意図が分からなかった。

自分の店で食い逃げをした娘を、何も聞かず赦し、銭湯へ行かせ、店を手伝わせる。
僕に、そんな事、できるだろうか?
赦すことは、できるかも知れない。
でも、訳は訊くだろう。
それは、何故か。
僕は、その人を見ただけでは、その人を分別できないからだ。
これは、僕だけじゃないだろう。
ほとんどの人が、そうだろう。
マスターは、その人を見ただけで、その人に出を差し伸べるべきかどうか、判ってしまうのだろうか?
それとも、とりあえず判らなくとも、手を差し伸べるのだろうか?

さらには、そのように無償の愛、無償のほどこしの失敗が「カレーライス」で描かれる。
その対比でこの映画を観賞する人は、少ないだろうけれど。
無条件に人を受け入れる事の素晴らしさと難しさ、両方が描かれている作品だ。

 

震災

描き方。

 

震災を描くのも、テレビより自由度が大きくなるのだろうか?
いや、スポンサーという縛りがあるのはどちらもそうなのだから、どちらが自由というのでもないのだろう。
ただ、松岡監督という人は、震災を描くのでも、結局は人と人との可笑しみや悲しみに終始する。
社会的なメッセージは、一切ない。
人の感情を描く事に、徹する。
そこは物足りなさでもあるが、それが松岡監督の個性なのだろう。

僕も、いつかはマスターのように、無条件に人を助けてみたい。
それはチャップリンや「男はつらいよ」「二十四の瞳」「赤ひげ」などの名作とされている映画たちが、追い続けたテーマでもある。

帰りに、どうしても恋しくなって、ゴールデン街へ寄った。
だけれども、夕方の5時、開いている店はなかった。
唯一ラーメン屋がやっていて、そこでありがたく瓶ビールを呑んで、帰った。
電車の中で、出来の悪いパンフレットをめくりながら。




2015.03.11