天野祐吉

文・鎌田浩宮

広告

広場

した
人。

僕が1980年代のアタマ、中学生の頃、この僕の胸倉を鷲掴んだのは、詩でもなく、俳句でも短歌でも、川柳でも狂歌でもなく、キャッチコピーだった。

「不思議、大好き。」
「おいしい生活。」

言葉は、人の心を動かすことが、できる。
ウキウキさせたり、躍らせたり、考えさせられたりすることが、できる。

あの頃のCMは、難しげな芸術家が創る短編映画より、面白かった。
アンディ・ウォーホルさえ、日本のCMに出ていた。

皆、広告を使って、表現というものの領域を拡張していた。
広告というのは、言葉があり、グラフィックデザインがあり、CMになればさらに音楽や映像が加わる。
僕は、映画と同じような総合芸術と捉えていた。
それができなくなったのは、バブル経済が終焉して、企業が直接的な売り文句を使ったCMに回帰してしまったからだ。
そうすれば、雑誌「広告批評」も、2009年に休刊してしまう。

バブルが来る前の、広告が遊び場だった頃、高校生の僕は、図書館へ行っては「広告批評」を山のように借りて、読んでいた。
横尾さんのデザインする表紙が、イカシてた。
その編集長が、天野祐吉さんだった。

僕が高校生の頃っていうと、同級生は、尾崎豊とか、ボウイとか、そういうのがバイブルだったみたいだけれど、僕は「広告批評」とか、RCサクセションとか、YMOとか、だった。
赤瀬川さんが編んだ宮武外骨の本を片手にしつつ、横尾さんとリサ・ライオンのセッションの展覧会に行き、如月小春さんの「劇団NOISE」を観て、シネ・ヴィヴァン六本木へ通いつめた。

 

広告批評。
1979年、
創刊。

 

天野さんは、自身でも沢山のコラムを書いたけれど、彼がいろんな面白い人々を誌面に招いて、対談させたりセッションさせたりして、自由に遊んでもらっているそのことだけで、既に何かを「批評」しているんだった。
そんな「広場の交通整理係」の天野さんが、格好良かった。
雑誌の編集長って、面白そうだな、そんな風に思った。

「広告批評」は、もちろん広告を批評する雑誌だったんだけれど、広告というフィルターを通してこの大量消費社会を批評した。
また、いろんな人に、広告というフィルターを通さずに直接、社会・政治・哲学・文化・芸術・芸能・時事問題などのコラムを書かせた。

この度、図書館へ行って、ごっそりと天野さんの本を借りてきた。
意外と多く借りられちゃったことが、ちと寂しかったけれど。
訃報を受けて、貸し出しが殺到しているかも、と思ったので。

さて、借りたその中に「広告批評大会」という本がある。
「広告批評」に掲載されたコラムや対談などをまとめたものなんだけど、ちょっと目次を読み拾ってみよう。

「ツービートはツービートをどう思っているか」北野たけし・兼子きよし
「外骨先生かく語りき」赤瀬川原平
「差異化のパラノイア」浅田彰
「戦争映画は面白いか」岩淵達治・長谷川和彦・山田太一
「アラーキーの超二流写真術」荒木経惟
「メディアはヒロバか」糸井重里・谷川俊太郎
「顔の研究」赤塚不二夫・椎名誠・和田勉
「言葉の意味と方向を解体する」川崎徹・別役実
「ウォークマンのある食卓」如月小春・ひさうちみちお(漫画)
「いま、どういうわけか家族論がいく」山崎哲・湯村輝彦(漫画)

時代が、元気だったのか。
編集する天野さんが、元気だったのか。
2013年の今も読みたくなるものもあれば、そうでないものもあるけれど、なんだか随分元気そうだなあ。
その時その時を切り取る、という意味では、新聞に近いんだね。

今、こういうの、ある?

逆に言うと、上記の人々が、軒並み元気がなくなっちゃった感もあるけれど。

で、この本には
「反戦広告試作集」
という特集があって。
これなんか、皆、知ってるでしょ。

この有名な「広告」は、1982年6月の「広告批評」38号の企画で創られたのだ。
浅葉克己がディレクション、コピーが糸井重里。

 

編集長

雑誌

読まれてた
頃。

 

天野さん、「ビックリハウス」の花編アッコちゃん、「朝ジャ」の筑紫さん、皆楽しそうで、羨ましかった。
僕は、小学3年の時にクラスの新聞係を担当して以来、なんと高校3年まで学級新聞や学校新聞を創り続けるようになるんだけれど、それはやはり、広場で皆と遊びたかったんだと思う。
それは、この小さなウェブマガジンに繋がっていくんです。

そんな天野さんが、いなくなってしまった。
このキュークツな世界を「批評」できる貴重な人が、また、いなくなってしまった。
何も、島森路子さんを追うように、行っちゃわなくても、いいのに。
共に、楽しく豊かな広場の交通整理をした、仲間。
その仲間を、追うように。

最後に、絵本作家でもあった天野さんの
「のぞく」
という絵本の中の一節を、抜粋しますね。

 

つりがねの なかを のぞいても なにも みえない。
でも、つりがねの おとの なかには なにかが ある。
みみを すましてみよう。おとの なかを のぞいてみよう。
ほらほら、なにかが みえてきたぞ。

 

ちなみに、
天野祐吉のあんころじい
これ、天野さんのブログサイトです。
よかったら、読んでみて下さい。

では、僕ら、頑張って、「学級新聞」、創り続けていきますね。

天野祐吉さん死去 広告批評の先駆者 80歳

広告批評の先駆けで、切れ味鋭い社会時評でも知られたコラムニストの天野祐吉(あまのゆうきち)さんが二十日午前十時三十八分、間質性肺炎のため東京都目黒区の病院で死去した。八十歳。東京都出身。葬儀・告別式は本人の希望で行わない。

出版社や広告代理店勤務を経て、マドラ出版を設立。一九七九年に雑誌「広告批評」を創刊し、編集長に。テレビや雑誌の広告表現から時代を読み解く手法で注目を集め、幅広い読者を獲得した。

広告批評百一号からは編集長を島森路子(みちこ)さん=今年四月死去=に譲り、新聞や雑誌のコラム執筆やテレビのコメンテーターとしても活躍。政治からメディア、芸能まで、ユーモラスな辛口批評で親しまれた。

「広告の本」「広告論講義」など著書多数。「くじらのだいすけ」「絵くんとことばくん」などの絵本も手掛けたほか、大人が人生を楽しむためのイベント「銀座・大人の学校」や「隠居大学」も開催した。二〇〇二年から松山市立子規記念博物館長を務め、〇七年から名誉館長。

天野祐吉さんは一九九〇年四月から二〇〇一年三月までの十一年間、本紙に「社会時評」を連載した。

◆脱原発 正道貫く

二十日に死去した天野祐吉さんは、原発再稼働の是非を住民投票に問うことを求める市民グループ「みんなで決めよう『原発』国民投票」の賛同人に自ら名乗りをあげていた。

「こういうことは、国民投票で決めるのが正道です」。市民グループが賛同人を募っていたホームページ上に天野さんがメッセージをかき込んだのは二〇一一年十月。「著名人が不特定多数の市民と同じ手続きを踏んだ。驚いたし、心強かった」。グループのメンバーでジャーナリストの今井一さん(59)は振り返る。天野さんは原発稼働の是非を「誰かに決めてもらったり、命令されるべきことではない。国民自身が決めなくてはいけない」と主張していた。

「東京電力や政府、原発に対し、非常に強い怒りを抱えていたと思うが、それをユーモアやウイット(機知)で包んで表現し、正義を押し出していた」と今井さん。さらに「原発にとどまらず、憲法や消費税などについても常に筋の通った主張をしていた」。急逝の報に触れ、「産業や経済ではなく、天野さんのように文化の力を持った人こそ日本の宝。最期まで正道を歩まれた」と惜しんだ。

親交があった画家の安野光雅さんは「天野さんと直接原発について話したことはないが、物事を理論的に考えていけばどうしても原発賛成とはならない。だから彼が原発に反対する姿勢を示したのは当然だった」と感じている。「広告批評と言っていたが、それは文明批評だった。批判がしにくい分野である広告に対して、本当のことを指摘するのと同じように原発の矛盾も突いていた。でも、穏やかな人柄だから、反原発の訴え方も過激ではなかった」

最近は天野さんの提案でつくった「隠居大学」で顔を合わせる機会が多かった。「気心が知れ安心して話すことができた。そういう人の輪で原発をなくすことも広がっていけば」と願う。 (杉戸祐子、小林由比)

(東京新聞 2013年10月21日夕刊 社会面)


2013.10.29