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キャマダの、ジデン。㊶YMO
鎌田浩宮・著
小学2年から、實おじさんに聴かせてもらったビートルズに、イチコロ。
その3学期にキャマダ家再集合となり、父母僕弟4人が三軒茶屋の1つ屋根の下で暮らし直すんであるが、モンダイなのは、父と母はビートルズにまるで疎いんであった。
父は、プレスリーが好き。
でも、僕には馴染めなかった。
ただ、父も母も映画が大好きで、僕も映画と、そして映画音楽に惹かれた。
「ウエスト・サイド物語」「サウンド・オブ・ミュージック」のサントラを弟と一緒に買って、両親へプレゼントしたりした。
頼りは、母が勤めていた、母の兄である修おじさん。
修おじさんのデザイン事務所には、ビートルズのでっかなポスターが貼ってあって、その真似をするのが僕のお気に入りだった。
修おじさんとのビートルズ談話。
すんごく、楽しかった。
クラスメートに話しても、
「なんだっぺそれ?ずうとるびのこと?」
と、全く知っている者がいない。
そりゃあしょうがない。
まだ小学生だもの。
以前書いたように、僕はこの頃芸能プロダクションに所属させられていて、ほとんど売れない子役をやっていた。
ごくたまに仕事があって、なんとあのCharとばったり。
サインをもらって、狂喜したりした。
ちょうどその頃、3年生の頃かな、「ぎんざNOW!」というテレビ番組や、NHKの「ヤング・ミュージック・ショウ」で、洋楽が放送されるようになって、ブラウン管にかじりついていた。
その頃1番人気があったのは、ベイ・シティ・ローラーズだったかな。
キッスの武道館のライヴ中継は、ひたすら格好良かった。
音楽がどうのよりかは、火を吹いたり口から血を流したりというのが、たまらなく刺激的だったのかも知れない。
あのテイストは「へルター・スケルター」に通じるし、すんなり耳に馴染んだ。
ただ、1番好きな曲は、アコースティックな「ハード・ラック・ウーマン」だったけれどね。
アース・ウィンド&ファイアーやクイーンのPVは、苦手でたまらなかった。
ファルセットや高音で歌うそれは、ビートルズのハーモニーとは異質で、気味が悪かった。
それは、実は今でも変わらない。
ラジオ、もちろん聴いていた。
当時、FMはFM東京とNHK-FMの2局だけ。
しかも、FM東京は歌謡曲ばっかしだし、NHKはクラシックばっかしなので、もっぱらAMのFENを聴いておりました。
英語だから曲名もアーティスト名も聴き取れない時がある。
でも、つい最近もたまたま耳にした曲が当時聴いていた曲で、ああ、と思い出したりする。
そして、5年生。
遂に、ビートルズを継ぐ音楽が、この世に現れた。
よく、ヴェンチャーズで初めてエレキギターを聴いて、その音にびっくりしたという話を聞くけれど、あのピコピコとした音は、正にそれと同じだった。
小学校の休み時間。
海外から転校してきた子とか、ちょっと背伸びした子がいつも集まる場所があって、いまこと僕らは話し合った。
「あれ、なんて言ってるのかな?」
「ドンチューノー、じゃない?」
「ラジオ、だよ!」
「テクノ、って聴こえるよ」
「トキノ、かもよ?」
惜しい。
答えがTOKIOと知るのは、それから何年も経っての頃。
「警察だ、開けろ!」
「だ~れ~?」
は、100回以上真似をして笑いあった。
コントと曲が交互になっているLPなんて、生まれて初めて聴いたし、あの交互は子供の心をさらに鷲掴んだ。
あれは、どんな人たちがどうやって演奏してるんじゃ?!
それを初めて確認できたのは、なんとワールドツアー中の彼らを、衛星中継でテレビ放送したものだった。
そのうち、TBSラジオ「大沢悠里のゆうゆうワイド」なんていう、昼間のおじちゃんおばちゃんが聴くような番組の中での交通情報のジングルで「ライディーン」が使われるようになった。
その世間への浸透ぶりに、そりゃあびっくらこいたもんだった。
でも、よくビートルズ日本公演の熱狂ぶりを振り返って
「すごい報道だったけれど、学校の中でビートルズを好きな奴なんて、クラスに1人いるかいないかだよ。だから、ストーンズが好きなんて奴は、学年に1人いるかいないか」
と語られたりする。
それは僕らも同じで、あのピコピコを知っている奴なんていうのは、正にクラスに1人かそれ以下か。
でも、ビートルズ同様、その「1人」の熱と言ったら、もうものすごいもんだったんだ。
僕ら背伸びした仲間の中で、裕福な家の子が、遂にLPを買う。
それをカセットテープにダビングして、皆で回し聴きする。
もう、6畳と4畳半の2DKの狭い家の中は、どこよりも光り輝くダンステリアだった!
ある日、富士フィルムが
「フジ・カセット・テープを買うと、抽選で彼らの日本凱旋公演にご招待」
と宣伝し始めた。
ご存じの通り、極貧赤貧だったキャマダ家。
必死の思いでテープを買い、抽選に応募。
なんと、当選したんだよ。
信じられなくって、頬をつねるだけでは間に合わなくって、ペンチとかスパナとかで顔中をひねり叩いた。
僕は、三軒茶屋小学校の同級生の中で、初めて日本武道館へライヴを観に行った少年となった。
ステージの、幕が上がった。
僕の、音楽人生の、第2章の始まりだった。
つづく・・・
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