「山田洋次監督50周年記念展」へ、行く。中編

取材/文/一部撮影・鎌田浩宮

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「頑張ろう日本」
「1つになろう日本」
「絆」
どれも好きな言葉じゃあない。

頑張りたくっても頑張れないから被災者の皆さんは苦しみ悩んでいるんだし、
1つになろうと言いつつ政治家は献金をくれる大企業しか助けないし、
戦後、望んで核家族化を目指した時点でこの国の絆は変わってしまったのだ。

そんな中で
「希望よ 永遠に」
という言葉は、僕の胸に染みこんだ。

一見凡庸に見えるこの言葉だけど、
希望をずっとずっと、永遠に持ち続けることの難しさを
踏まえた上での言葉なんだと思う。

生きていく上で、生活していく上で、
大きな事故や事件が起こらなくとも、
希望を持ち続けながら歩くことが難しいのは
誰もが無意識のうちに解っていること。

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いっつも、ちょっとしたことでくよくよして、
でも、ごくたまにいいことがある、
そのために生きているんじゃねえかなあ、って
寅さんも満男に言っていた。

だからこそ、
大きな事故や事件が起きなくても
日々の生活の中で、希望を持って掲げられていた
映画の中でのハンカチであり、
大震災が起きた後、あらためて希望を持って掲げた
現実の世界でのハンカチ。

常に人生の中では、希望と失望が交差するからこそ
このハンカチに託した希望こそ永遠に、
なんだと思うんですが、読者の皆さん、いかがでしょうか?

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お客さん、混んできたなあ。
ご年配の方が圧倒的に多いが
僕ぐらいの中年や若者も見受けられる。
小さい子連れの家族もいる。
皆吸いつけられたように展示物や写真から離れない。
不思議と、小さい子も
退屈で駄々っ子になったりしてないよ。

そしてこのブースの最後には、
「幸福の黄色いハンカチ」の
ラストシーンがモニター上映されているのよ。
健さん、いいなあ。
また山田監督と、タッグを組んでもらえないかなあ。

さて、東北大震災のブースが終わり、
次に続き現れるは、なんと、今は無き
松竹大船撮影所の巨大なジオラマ。

ああ、まだ、そうなんだ。
山田監督は、自分の作品よりも伝えたいこと、
それは、夢の工場=大船撮影所、なんだ。

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監督のコメントが貼ってある。
小津安二郎や木下惠介という大先輩の下に入社し
映画を学び、自身も監督になり、
数多くの作品を、スタッフとキャストの皆で
力を合わせて大船で創っていった。
しかし映画産業の斜陽には抗えず
自分の作品が皮肉にも
撮影所最期の撮影となってしまったつらさ、悲しさが
面々と書かれているんです。

2000年、閉所。

ジオラマを見ると、それにしても撮影所は広い。
どでかい体育館のような8つのスタジオ、総務館、食堂などから
迎賓館や労組専用の建物まであり、
グラウンドのように広い庭では
野外撮影ができるようになっている。

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元々蒲田にあった撮影所。
映画がサイレントからトーキーになり
蒲田だと街の騒音が大きく
録音が困難で
大船に引っ越しをしたわけです、
そんな説明もあり。

そしてようやく、初期の山田作品の写真が飾られている。
「二階の他人」「下町の太陽」「家族」「同胞」「故郷」
のメイキングのスチール写真を見られるのは貴重だなあ。
どれもこれもが、大船製なわけだ。

当初、山田監督は小津作品に否定的だった。
どれもこれも似たような内容で、訴えるメッセージもない。
違う作品を創ると意気込んでいた。

「二階の他人」が1961年。当時30歳。
「秋刀魚の味」(小津監督の遺作)が1962年。
「男はつらいよ」が1969年。
多い時には年に3本も映画を封切りする
松竹をしょって立つ監督になって。

今は小津監督を敬愛し
「東京物語」を現代に置き換えたリメイク、
「東京家族」を、震災を踏まえた内容に書き換え、製作に取り掛かり…。

nikainotanin

この記事、1月30日(月)につづく・・・。


2012.01.23