イヤイライケレ、二風谷

撮影/文・鎌田浩宮

17年ぶりに、
二風谷へ行った。

17年前と言ったら、
僕がまだ30歳だった頃だ。

1998年だ。
まだ20世紀で、
311も
911も
なかった頃だ。

 

イランカラプテ、
二風谷。

 

二風谷(にぶたに)は、北海道沙流(さる)郡平取(びらとり)町にある。
国内で唯一と言っていい、アイヌの人々が人口の7~8割を占める、アイヌがマジョリティーの村落だ。
札幌からバスで2時間前後で来られる。
だが、そのバスを知らなかった僕は、17年前は、札幌から苫小牧を経て、静内の辺りまでJRで行き、そこから平取川に沿って、バスで行った。
8時間もかかっただろうか?

白老や阿寒のような、観光地化はあまりされていない。
民宿は、2軒のみ。
あとは、レストランに併設されているライダーハウスのみ。
だから、アイヌの人々が、のびのびと暮しているような気がする。
それは、17年前と変わらぬ印象だ。
だからこそ魅力があり、決して多いとは言えないけれど、道内外から観光客や旅人がやって来る。

17年前と、ほとんど変わらない街並み。
肉屋も魚屋も八百屋もスーパーもコンビニもない。
僕は映画を上映しに来たが、映画館もレンタルヴィデオ屋もない。

長野県の川上村を思い出す。
あそこも、こんな風景だった。
隣町へ行けば、お店はある。
それで、いいのだ。

 

本音
しか
言わない。
歯に

着せない。

 

アイヌの人々の人口の割合が大きく、自ずと差別が少ない。
それは、素晴らしい事だ。
楽園だ。

だが、少し変わってしまった風景も、ある。
17年前お世話になった土産屋・かどわき民芸店がなくなっていた。
ここのおばあちゃんが、楽しい人だった。
1000円前後のペンダントを買おうとすると、
「なんだ、もっと高い物を買え」
と真顔ですごむのだ。
「この、熊の木彫りなんかどうだ」
数万円もするものだ。
買いたいけれど、これを買ったら旅を続けられなくなると言うと、なんとか許してくれた。
許すどころか、翌朝、店に来いと言うのだ。
行くと、弁当を作ってくれていた。
白米の中に、アイヌの名産・いなきびが入ったやつだ。
美味かったなあ。
「本当はお前を家に泊めてやりたいけどな、面倒臭いから、また明日の朝来い」
ビンボー旅をしていた僕には、本当にありがたかったのだ。

そのおばあちゃんがまだ生きているかどうなのか、今回泊めさせていただいた家族の皆さんと、その話題で持ちきりになった。
「もう死んだんじゃねえか?」
「いや、まだ生きてるって話だ」
あれから、17年。
生きていれば、相当の高齢だ。
半ば、諦めていた。

「おい!生きてるって連絡が来たぞ!ずっと前から、遠くの病院に入院してるんだと」
喜んでいる僕を見て、今回映画を招聘してくれた、二風谷の青年部の健さんさんが、隣町の平取の病院まで車で連れていってくれた。

だが、残念なことに、そこにはいなかった。
もっと遠くの病院らしい。
17年前のお礼に、自作の音楽のCD、持って来たのになあ。

 

萱野茂二風谷アイヌ資料館

行った。

 

萱野さんは、アイヌの人権運動や、アイヌ語や文化を残す活動、アイヌが愛する平取川を壊す二風谷ダムの建設反対運動など、様々な面でものすごい人だ。
アイヌで初めて参議院議員になり、アイヌ語で国会答弁を行なった。

萱野さんが昔録音した、アイヌの神話などにアイヌ語で節をつけて歌うように語る、ユーカラという伝統古謡のCDを聴きながら、かなり寝不足だった僕は、小1時間ほど椅子でうたた寝した。
こんなに幸せな午睡をした者は、なかなかいないと思う。

萱野さんが解説をしている、イヨマンテのVTRも観た。
1977年、最後のイヨマンテを録画したものだ。
これ以降、イヨマンテは行われてはいない。
イヨマンテというのは、飼っていた子熊を生贄にし、神へ捧げる儀式だ。

映画上映の翌日は、チプサンケという1年で1番大きな祭りの、前夜祭だった。
僕は朝から手伝いに駆り出された。
アイヌ文化を愛する遠くから来た学校の先生にも、容赦ない。
僕らは椅子や机や生ビールのサーバーや肉や、何でも運んだ。

チプサンケは舟おろしと言われ、昔からの製法で造られた、丸太をくり抜いて造った舟を浮かべ、舟に魂を入れる儀式を行うのだ。
これを平取川で行なうはずが、二風谷ダムが造られてしまい、人々はダムに船を浮かべなければならなくなった。

この悔しさは、17年前から話を聞いていた。
今はにぶたに湖と柔らかい名称にしているが、こういったものは原発と構造は同じだ。
最初は皆反対するのだ。
そこを、札束で頬をひっぱだかれる。
悔しいが、これで多くのハコものが建ったのだろう。
反対運動をするアイヌが、逆に地元のアイヌから、後ろ指を指されるパラドックス。

この前夜祭では、アイヌ式の結婚式が行われた。
毎年この時期に、全国から希望するカップルを募って開催するのだ。
結婚式のやり方はVTRでしか記録が残っていないとの事で、それを見て練習し、青年部の人々が祭司を務める。

この会場となったポロチセ(大きな家、の意味)はアイヌの伝統家屋。
僕の映画の上映にもここが使われた。
基本的にはわらでできているのであろうか。

明治以降和人が侵略してきて、木造家屋に強制移住させられた事もあるらしいが、アイヌは木造家屋の冬の寒さにうんざりしたらしい。
また、チセは真夏の昼間でも、中はひんやりと涼しく気持ちいい。
ここで昼寝をすると最高なんだよ、とアイヌの方が教えてくれた。

また、この夜はユーカラも催された。
その一方で、盆踊り大会も行われた。
盆踊りというのは和人の祭りだが、これも古くから愛されているようだ。
盆踊りのワイヤレスマイクを、別会場のユーカラのワイヤレスマイクが拾ってしまい、あっちこっちの音声が混じり合うハプニング。
このように、アイヌと和人の祭りが同時多発していく。

かなり夜の更けた夜の10時から0時まで、交流会と称したイヴェントでは、ビンゴ大会や腕相撲大会、バンドのライヴなどがチセで行われた。
地元の人々や観光客などが、混然一体となり、遊ぶ。
0時以降も、朝まで呑んで楽しんだ猛者もいたそうだ。

翌日はチプサンケなのに、それを知らなかった僕は、だいぶ前から、自身の映画の札幌での上映を組んでしまっていた。
前夜祭を抜け出し、健さんと共に札幌へ向かった。
健さんも札幌で仕事があったのだ。

健さんは和人で、日本をバイクで旅している時に二風谷へ訪れ、そのまま移住してしまった。
彼も、猛者だ。
アイヌの人々よりもアイヌ語が堪能で、完全に彼らと溶け込んでいる。
そんな健さんを、尊敬している。

健さんは、せっかく二風谷で映画を上映したいと言ってくれるのだからと、周囲を説得し、僕を招いてくれた。
ライダーハウスで寝泊まりしようとしていた僕を、家に泊めてくれ、奥さんは朝ごはんを作ってくれた。
奥さんはそれどころか、僕の映画の上映後は懇親会を設けてくれ、青年部の人々と僕に、ジンギスカンを振る舞ってくれた。
どこから予算が出ている訳でもないのに、甘えてしまった。
感謝の気持ちで一杯です。

健さんと話をすればするほど、気が合った。
ジョン・レノンが好きで、映画だったらスティーブ・マックイーン。
マックイーンの中では、もちろん「大脱走」だ。
「ブルース・ブラザース」や「ドゥ・ザ・ライト・シング」も、若いのによく知っている。
僕の映画のテーマである反原発にも関心が大きく、戦争法案にも同様だった。
こうした出会いが、旅の醍醐味だ。

アイヌはいないとほざいて、この前の選挙で落選した馬鹿な議員がいた。
ここへ、来いよ。
健さんがたっぷり、親切に説明してくれるよ。


2015.09.02