応募作品#4 ヴィラ・コーポ笹野101号室について

編集・鎌田浩宮

 

ブログのくせに長めの事業でこざかしい
エプスタインズ創刊10周年記念特別事業
「エプスタ随筆大賞」

入稿、入稿、また入稿。
断続的な入稿に、破顔する編集部。
今回は、現時点で最年少の方による作品です。

 

 

題・ヴィラ・コーポ笹野101号室について
著・藤坂鹿
テーマ・ビッグトゥモロウ

 

 ∮       §       ∮       §       ∮

 

ヴィラ・コーポ笹野の101号室では、昨年の冬に住人が死んだ。だから我われ夫婦は、新宿まで直通5分の最寄り駅から徒歩8分、3LDK70平米という何とも好条件なこの部屋を月13万円で借りることができた。

人は皆死ぬ。かならず。人の死んでいない場所などない。もしかしたらわたしだって、この家を墓場にするかもしれない。だから前の住人が家の中で死んだことなど、何とも思っていなかった。広くて陽のよく入る、古いながらも趣のあるこの101号室を愛そうと決めた。2020年5月。春と初夏のまざる、一年で風がもっとも青い季節。

***

結論から申し上げよう。ヴィラ・コーポ笹野101号室に骨を埋める我が覚悟は、入居僅か4ヶ月にして完全に砕け散った。我われ夫婦は残暑のなか発狂寸前で荷造りをし、ヴィラ・コーポ笹野101号室をあっけなく打ち棄てた。

新居は築5年1LDK、お家賃非公開、シーサイドヒルズ602号室。シーサイドヒルズは二重の完全オートロック、しかもセンサーに鍵をかざさなければポストすら開かない。なんとも気品漂うセキュリティ。

ヴィラ・コーポ笹野は、オートロックどころかマニュアルロックも怪しかった(主に窓の立てつけが最悪)。ポストは玄関ドア直結、しかも隙間風が入る。腕を突っ込めば50センチほど家に侵入できる脆弱セキュリティ。うーん、思い出すと、そんなことすらジワジワ腹が立ってくるな……。

なぜ我々はヴィラ・コーポ笹野101号室を去ったのか。それは端的に申し上げて、ここが「住めない」家だったからだ。死んだ元住人の霊が夜な夜な枕元に現れ……のほうが、まだ趣がある。この部屋には「明日」が来なかったのだ。

***

事実は小説より奇なり。

***

引っ越して2週間目の朝、わたしは台所に置いてある石鹸の角が削れているのを見つけた。錐でひっかいたような削れかたをしていたので、気になったものの、「滑って落として削れたのだろう」くらいに思ってほうっておいた。

2日後の朝、起きた夫がわたしを呼んだ。

「おはよう、鹿ちゃん。あのさ、」

「なに?」

「聞きたくない話していい?」

「やだ~~~~~」

「たぶんね、この家、ネズミがいる」

「……ネズミ?」

夫の手にはあの石鹸。見ると、一昨日よりもはるかにいびつに角が削れている。

「これさ、今朝見つけて、なんか変だなって思って、『石鹸 削れてる』でググったんだよね。そしたら、ほら」

夫が見せてくれたスマホの画面には、我が家の石鹸と全く同じ様子の石鹸のサムネイル画像がずらりと並んでいる。その真下に踊る「石鹸のネズミ被害に…」「ネズミにやられました(T_T)…」の文字。

「ネズミって、石鹸かじるの好きなんだって」

全然知りたくなかった情報である。つまり、それは、我々はネズミがかじった石鹸で手を洗い、その手で料理をしたり、コンタクトレンズを入れたりしていたということだろうか。

「100億、無理」

「100億無理だね」

「これは100億よ」

「100億だね」

その場で管理会社に電話をかけ対応を仰いだところ、数日後にネズミ駆除業者を手配してくれるとのこと。本当は今すぐにでも駆けつけてほしいところだが、仕方ない。

念のため石鹸は袋に入れて保管し、台所にはプッシュ式ハンドソープを導入することにした。しかし折悪く天下は大コロナ禍時代。ハンドソープなど、店に並んだ日には一瞬でなくなってしまう。結局ドラッグストアを8軒巡り歩き、似非キレイキレイのボトルをなんとか確保した。

***

我が家に似非キレイキレイのボトルが置かれたその3日後、起床したばかりの夫がわたしに声をかけた。

「おはよう、鹿ちゃん。あのさ、」

「なに?」

「聞きたくない話していい?」

「やだ~~~~~」

「おれたちの寝てる部屋で、ゴキブリの赤ちゃんが死んでる。しかもたくさん」

「……ゴキブリの赤ちゃん?」

夫の指さす先には、数ミリほどの黒い点々。寝ぼけまなこに眼鏡をかけて見てみると、黒と白の縞模様の小さな虫が数匹転がっている。

「朝起きて、なんかゴミが落ちてるな~と思ってさ、よく見たら虫なの。で、『黒白 縞模様 小さい虫』でググったらさ、ほら」

夫が見せてくれたスマホの画面には、目の前に転がっている虫の死骸と全く同じ虫のサムネイル画像がずらりと並んでいる。その真下に踊る「クロゴキブリの赤ちゃん!?……」「クロゴキブリの幼虫が……」の文字。

「100億、無理」

「100億無理だねえ」

「えっと、つまりわたしたちは、クロゴキブリの繁殖の中で眠っていた、と」

「うん」

「ゲボ吐きそう」

「袋あるよ」

「できる男だなあ」

死んでいたのは、数日前にバルサンを焚いたせいだろう。引っ越す前に一度焚き、その2週間後にもう一度焚くと良いとGoogle先生が教えてくれた。調べたところ、クロゴキブリが卵からかえるまでにかかるのはおよそ1ヶ月ほどらしく(ものすごく知りたくない情報だ)、卵にはバルサンが効かないらしい(ものすごく知りたくない情報だ)。

つまり、2週間少し前に入居した我われの不注意で招いたゴキブリが産卵したのではなく、入居前の消毒清掃が十分でなかったために(あるいは、立てつけの最悪な窓から入り込んだゴキブリが清掃後に生みつけて)生き残った卵がかえった、ということだろう。こちとら入居前に消毒清掃費払ってんだぞ。どういうこっちゃ。

その場で管理会社に電話をする。ネズミの駆除業者がゴキブリも一緒に駆除してくれるという。頼む。一刻も早く来てくれ。

***

数日後、駆除業者が来た。家の中を見て回り、床下にも入り、ひとまずネズミが入ってきそうな場所に罠を仕掛けてくれた。これで一安心。明日から安眠できる。

そう思っていたのだ。そのときは。

***

「ねえ鹿ちゃん、見て、ヘビだよ」

101号室、すなわち1階にある我が家には、小さいながら庭があった。夫の指さす方を見ると、70センチほどのアオダイショウが、そろりそろりと龍のひげのあいだを進んでいる。しかしネズミとゴキブリの赤ちゃん騒動直後の我われは、もはや驚く気力を失ってた。

「ヘビだねえ」

「でっかいねえ」

「ヘビ何食べるんだろうねえ」

「ネズミだといいねえ」

「ほんとだねえ」

しかし、よく思い出してほしい。ここは最寄駅から新宿まで直通5分の都会。そんな都会の真ん中に、70センチのアオダイショウ。けれども我われは、ググったり考えたりすることに疲れ始めていた。『アオダイショウ 都会 なぜ』で調べても、Google先生はこの疲労を癒してはくれない。

生活をダイレクトにおびやかすものが近くにいるかもしれない、という不安は、精神をじわじわ蝕む。ネズミとゴキブリに比べれば、家の外をヘビ一匹がうろついているくらい、どうということはなかった。

「ヘビ、かあ」

初夏はすでにその爽やかさを手放し、重苦しい湿気が庭を満たしていた。

***

ヘビが庭を横切ったその日の夜、わたしと夫はコンビニに出かけた。メルカリで出品した品物が売れたので、発送をしに行ったのだ。儲けたメルマネーでコンビニスイーツを買う。これがつつましやかに暮らす我われのささやかな幸福である。片手にティラミス、片手にチーズケーキを提げ、帰路を急いだ。

帰宅して明かりをつける。テーブルの上には、ラップにくるまれたご飯。いつも夜に炊いたご飯は残りをこうして冷まし、冷凍する。

そのラップご飯の端が、ぐちゃぐちゃに食い破られている。

「……!?」

絶句した。これは、この食われ方は、間違いなくネズミだ。なぜ? ついこのあいだ、業者が床下にまで入って罠を仕掛けたばかりではないか。どこかに抜け穴があったのか……?

と思う間もなく、リビングに接してドアを開け放していた寝室から、黒い塊が猛然とこちらに突っ走ってきた。でかい。瞬時に目が捉えたそれは、体長20センチはあろうかと思われるネズミであった。

「うわあああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!」

叫んだ。叫んでわたしは、反射的にリビングから飛び出した。玄関にいた夫が慌てて駆けつけてきて、飛び出してきたわたしとぶつかりそうになる。

「どうしたの!?」

「ネズミ!!!!でかい!!!!こっちに突っ込んできた!!!!」

「嘘!?どこ行った!?」

「怖くて見てない!わかんない!」

すぐさま夫がリビングを覗いたが、もうそこに奴の姿はなかった。業者の言葉を思い出す。

「ネズミってね、親指ほどの隙間があれば通れるんです。だから、見つけた次の瞬間は、もうどこに隠れるかわかんない」

***

その日からわたしは不眠症になった。猛然と突進してくる手のひらサイズのネズミは、夢までわたしを追いかけてきた。どこの下水を通ったかもわからないような体で寝室に入りこまれたせいで寝る場所も変えざるを得ず、それが不眠に拍車をかけた。ただただ、怖い。なぜ自分の生活が突然こんなにもおびやかされなくてはならないのか、わけがわからなかった。

不安のない暮らしには、当たり前に明日が来る。ヴィラ・コーポ笹野101号室には、明日が来ない。暮らしへの不安は、人から明日を奪うのだ。

***

不眠症、数週間。時は梅雨。いつしか不眠症をこじらせ、日中に幻覚すら見るようになった身体に、晴れ間のない空はずいぶんつらかった。

あれからまた業者が来てくれた。調べたところ、玄関下から床下に続く穴を通って、ネズミが出入りしていたらしい。穴は木の板で頑丈にふさがれた。そしてネズミはいなくなった。隙間という隙間に殺虫剤を散布した。ゴキブリの赤ちゃんもいなくなった。ときどき、立てつけの悪い外から入ってきたと思しきでかいゴキブリに、100%の殺意でゴキジェットを向けた。わたしの明日を奪う奴は、絶対に、許さない。

梅雨。雨は続く。6月だというのに染み入るような寒さで、わたしはかぼちゃを煮ていた。しとしと降る白い糸を窓から眺める。去年の冬ここで亡くなった人の骸は、無事だったのだろうか。ネズミに食い破られ、ゴキブリに群がられてはいなかっただろうか。その人は、台所に斃れていたという。ラップご飯と石鹸のかじられた、この台所に。

そんなことをぼんやりと思いながら、醤油のボトルを開けて、「あっ」と声が出た。

かびているのだ。醤油のボトルの口元が。

「……?」

なぜ、かびているのか? 醤油のボトルがかびるなど、26年生きてきて初めてのことである。慌てて醤油をしまっていた台所の戸棚を開けて、手近にあるものを引っ張り出し、安否を確認する。

かびている。森永ココアの粉、マリアージュフレールの紅茶、だしの素、乾物、口を開けた調味料。どれにもうっすらと胞子がまとわりついている。絶望して、隣の引き出しをひっくり返す。なんと、中に入っているものどころか、引き出しの底面一面にカビが生えている。

とっさにティッシュでカビを拭おうと、木製のティッシュケースに手をかけて、さらに「あっ」と声が出た。

木製のティッシュケースは、毎日いるこのリビングダイニングに置いてあるにも関わらず、その側面がかびていた。ゾンビに襲われて、仲間に助けを求めようとしたらその仲間がゾンビになっている、B級ホラー映画でおなじみのあの展開を、まさか生きているあいだに体験することになろうとは。

この家は、呪われている。幽霊なんかよりも強烈なものに。

***

台所中の戸棚や引き出しにカビキラーを薄めたものを噴霧して、丁寧にふき取った。それでも調味料やお茶類は、無残にもカビに敗れていった。家中を改めて点検すると、たった2か月半前に押し入れに入れたカバンやコートもかびていた。下駄箱のブーツもかびていた。よく見たら、私室の床にもカビが浮き上がり始めていた。

ネズミとゴキブリの定期点検に来た業者は言った。

「床の基礎がダメかもしんないね、これ」

こうして我われはとうとう、ヴィラ・コーポ笹野101号室を去る決心をした。

***

そこから先はまた別の地獄であった。何が何でも初期費用の全返還と、諸々の被害の補償を望む我われと、管理会社の仁義なき戦い。夫はそうした争いが苦手な人間である。かたやわたしは、生まれながらに阿修羅を背負う人間である。最初、夫だけに名刺を渡し、夫に顔を向けて話していた担当者に「わたしもこの家の主人ですが」と静かなる宣戦布告をしたら、彼はいつしか、メールの本文先頭に、夫よりも先にわたしの名前を書くようになった。

わたしは絶対に一歩も引かなかった。家中のあらゆる証拠と、賃貸物件に関する過去の判例を揃え、契約書を隅々まで読み漁り、万全の交渉の城を築いた。しかし、ただでさえ両者にとってセンシティブな交渉事で、決して怒ってはならない。ましてやパワーで押し切ろうとしてはならない。交渉は、あくまでも相手が気持ちよくこちらの申し出に応じてくれる結果にならなければ、成立とは言えない。阿修羅はそうした美学にもこだわるのだ。美学を守ろうとした結果、ストレスで中耳炎と膀胱炎を発症した。幻覚はひどくなる一方だった。

そして1ヶ月以上ににわたる交渉の結果、ついに我われは完全なる勝利を収めた。しかし、条件付きで。

「8月末までにご退去いただくという条件であれば、初期費用の全額返還及び弁済をするとの意向を貸主様より承りました」

カレンダーを見る。そのメールを受け取った日は、8月13日だった。

***

こうして我われは3つ目の地獄、つまり2週間ちょっとでの引っ越し騒動を発狂寸前で乗り切り、ヴィラ・コーポ笹野101号室を去った。入居からぴったり4ヶ月が経った、残暑の午後に。

引っ越しを終えた日の夜、わたしと夫は近くの中華料理屋で労をねぎらった。

「終わったね」

「むしろ始まった」

「たしかに」

「やっと明日が始まるんだ……」

「?」

「明日が来る家に住めてよかった」

「ほんとうに、そうだね」

我われの明日。それは、なににも脅かされず、安心して眠れる場所にある。明日がこれほどまでにうれしく輝いていた日があっただろうか。

さようなら。ヴィラ・コーポ笹野101号室。わたしは、明日を手に入れました。

 

 

募集期間を延長しました。ぜひ、ご応募下さいね。

 

ブログ・エプスタインズ創刊10周年記念特別事業
エプスタ随筆大賞
応募締切:2020年10月11日(日)
ジャンル:随筆
形式:Microsoft Word または googleドキュメント
   ペンで紙に書いて、または点字などの郵送も歓迎です
枚数:制限なし
テーマ:以下の6つの中から選び、応募下さい。
   ・お楽しみはこれからだ
   ・おれは悪くない
   ・三等同僚
   ・死ぬのは奴らだ
   ・ビッグトゥモロウ
   ・耄碌と恍惚
賞品/賞金:後日発表
賞一覧:・大賞
    ・投票による読者賞
    ・裸の大賞
    ・若大賞
    ・青大賞
    ・のんき大賞
    ・Mr.BOO!ギャンブル大賞
審査員:高橋紅(くれない)
    高橋基(もとい)
    スズキスキー
発表:2020年10月吉日
応募先:info@epstein-s.net @を半角に変換して送信して下さい
郵送は〒154-0024 東京都世田谷区三軒茶屋2-20-13-410 鎌田浩宮まで

 

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2020.10.06