キャマダの、ジデン。51 東日本大震災

鎌田浩宮・著

 

東京に住む僕にとって311は、
遠くの地で起きた惨事ではなく、
僕自身に起きた惨事だった。

 

当時僕は、電車で1時間15分ほどだっただろうか、神奈川県の会社に勤めていた。
午後2時46分、凄まじい音と揺れが長く続いた。
急いで出入口のドアを開け、地震によって外に出られなくなるのを防いだ。
天井の空調溝のような物が落ちてきた。
その真下にいたら、大怪我になっていたか、死んでいた。

しかし人間というものはどれだけ愚かなのだろうか、とんでもない事が起きたという認識がなかった。
生き物としての本能がぶっ壊れているのだろうか。
固定電話はしばらく通じていたので、ある社員は呑気に仕入れ先へ見積もりの催促の電話を入れていた。
会社にはテレビがなく、会社の敷地があまりにも広いため屋外の状況も分からず、インターネットによる情報に頼るしかなかったが、地震の直後は情報が乏しく、またいつもの地震か、愚かにもそれくらいの認識だった。

僕の思い違いならお詫びしなくてはいけないのだが、東北の沿岸部の多くの方々は、何が今起きているのか整理しきれないところへあっという間に津波がやってきて、犠牲になられてしまったのではないだろうか。
これまで生きてきた数十年の間、地震が起きると、それとセットで津波注意報がある、でもほとんどは津波が来ないのが常だった。
今回は注意報ではなく警報だ、しかし、何を持ってどこへ逃げればいい?
家にいても大丈夫なのではないか?
そういった様々な思いが頭を錯綜している間に、津波は容赦なくあっという間にその場を襲っていった、そんな状況もあったのではないだろうか。

さて、神奈川にいた僕等には、それから少ししてあっという間に携帯電話が不通になり、全ての電車が止まり、交通がマヒし道路が大渋滞するなどへの情報も乏しかった。
会社の上の者による早急な判断が必要だった。
しかし会社の判断はあまりにも鈍く、遅かった。
僕等は、いつまでも仕事をし続けていた。

 

早急に帰宅
させなかった

あの会社。

 

相当時間が経ってから、同僚が津波の映像をネットで確認した。
しかしここでも、僕等の事実への把握能力は鈍っていた。
津波によって民家や自動車が流されている、しかしこれは全ての住民が避難した後に起きているのだろう、人は1人も死んでいないはずだ。
まるでCGで作られた映画でも見ているような気分だった。

4時半頃だっただろうか、ようやく僕にも、仕事を打ち切って帰宅させるべきなのではないかという思いが強くなった。
電車が運行していない状況を、ここで初めて知ったのだった。
しかし会社は、定時の5時半まで仕事をさせた。
電車は動いていないので、車で通勤していた者が皆を乗せて帰宅する事になった。
道路という道路はとんでもない渋滞だったが、僕以外は比較的会社の付近に住んでいたので、裏道を駆使し、何とか数時間で送り帰す事ができた。
しかし僕だけに関しては、この渋滞状況では車でも無理だと判断し、夜9時半頃だったか、通常であれば会社から数十分で着くはずの上司の家に泊まる事になった。
食事も用意してもらい、ご馳走になった。

気分を落ち着かせるためにも一杯呑むか?ウイスキーでも買ってくるか?と上司が言っていた10時頃、携帯電話が通じた。
僕と同じ三軒茶屋に住む家族と、電話が通じたのだった。
電話の向こうで母が、僕の家にいるはずの、猫がいないと叫んでいる。
僕の家の中の家具の殆どが倒れてしまっており、割れた食器などが床に散乱していると言う。
僕の家はマンションの4階だったため、泥棒に入られる心配もないと、また、僕の猫はその窓を開けベランダに出て日向ぼっこをするのが好きだったのもあり、普段から窓の鍵を閉めないでおいていた。
その窓が地震により全開になっており、猫は4階下の地面に叩き落されてしまったのではないかと、母は泣いているようだった。
閉鎖されていた東名高速が開通したので母の夫、すなわち僕の義父が急いでこちらへ迎えに行っている、と言ってくれ電話を切った。

 

東京でも
家屋の被害は
あった。

 

家の中がめちゃくちゃになっている、そして、息子同然に溺愛している最愛の猫・浪(なみ)がそんな事になっている、全てが予想していない事態だった。
この時初めて、通勤距離の遠すぎる職場を選んだのは失敗だったと悟った。

東名高速は開通したばかりのせいかすごく空いていて、義父はあっという間に駆けつけてくれた。
そして帰宅。
0時頃だっただろうか。
真っ直ぐ歩く事のできない室内を進み、浪のいそうな場所を探す。
押し入れの中だった。
浪は小さくうずくまって、まるで震えているようだった。
どんなに強く抱きしめても、浪の極度の緊張は少しもほぐれなかった。

元々浪は腎臓が悪く、体調を崩していた。
まだ死ぬ年齢ではなかったが、まあまあ高齢の方だった。
この日を境に、断続的に1日に何度も嘔吐するようになってしまった。
動物病院に連れて行くと、病状が悪化している、1週間で死ぬ可能性もあると診断された。
もう、仕事どころではない。
毎昼毎晩寝ずに看病した。
同時に、散乱した室内も片付けなければならなかった。

なぜか、うちの会社は震災の翌週も、通常営業だった。
こんな時だからこそ得意先への納期を守ろう、こんな時こそ稼ごうという意識だった。
狂っていた。

東京の多くの企業が、自宅待機として社員を出勤させなかった時期だった。
出勤できたとしても、いつまた電車が止まるか分からない、つまり帰宅難民になるのを避けるためだった。
電車は止まってこそいなくても、急行などは走らず各駅停車のみの運行、しかも運行本数を相当に減らしていたため、駅舎の外には電車に乗りきれない人々が溢れ返っている状況だった。
うちの会社は、自宅待機から完全に逆行していた。

 

震災解雇
に遭遇した。

 

僕は会社を、3日休んだ。
浪の看病をしていた。
家の片づけもあった。
それは、同僚や上司に全く理解されなかった。
皆大変なのに、なぜ休むのだ。
会社のすぐ傍に住んでいる者どもにとって、帰宅難民になる恐怖は存在しなかった。

震災から10日経ったころか、福島は相馬に住む友人とようやく電話がつながった。
エプスタインズで相馬との往復書簡の連載を始めた。

3月末、9万円の減給を言い渡された。
3日休んだのが理由だった。
とても生活できる賃金ではなくなってしまう。
浪の看病を最も重視しよう、浪は僕の息子だ。
僕は会社を辞めた。
巷でも、震災解雇という言葉が取り上げられていた頃だった。

浪は、その年の12月2日に死んだ。
家族を失った僕は悲しみのあまり、何もできなくなった。
震災と原発事故で家族を失った人の気持ちが、伝わりすぎるほど伝わった。
この悲しみと苦しみは、長く続いた。
僕にとっての東日本大震災は、ずっと続くのだった。


2017.03.11